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坂本龍馬、新国家の政体案「新政府綱領八策」を起草

新官制擬定書

慶応3年(1867年)10月15日、将軍徳川慶喜の大政奉還が、勅許された。ところが、前日には薩長両藩にあてた討幕の密勅が、岩倉具視らの画策によって降下されていた。この重大な事を、坂本龍馬は知らない。

この頃龍馬は、新政府の人事案である『新官制擬定書』を、長岡謙吉、戸田雅楽と相談して作り上げている。

『新官制擬定書』
関白
三条実美(公卿)
内大臣
徳川慶喜(徳川)
議奏
有栖川宮熾仁親王(宮家)、仁和寺宮嘉彰親王(宮家)、山階宮晃親王(宮家)、島津忠義(薩摩)、毛利広封(長州)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、鍋島閑叟(肥前)、徳川慶勝(尾張)、伊達宗城(宇和島)、正親町三条実愛(公卿)、中山忠能(公卿)、中御門経之(公卿)
参議
岩倉具視(公卿)、東久世通禧(公卿)、大原重徳(公卿)、長岡良之助(肥後)、西郷吉之助(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、大久保一蔵(薩摩)、木戸孝允(長州)、広沢平助(長州)、横井小楠(肥後)、三岡八郎(越前)、後藤象二郎(土佐)福岡藤次(土佐)、坂本龍馬(土佐)

そして10月24日、龍馬は、後藤象二郎の要請を受け、越前福井に向かった。これは、土佐藩主山内容堂の親書を越前侯松平春嶽に届け、上京を要請するためであった。龍馬は、岡本健三郎と家来1人とともに京都を出立し、10月28日に越前城下に到着した。

龍馬は松平春嶽に拝謁した後、財政政策を相談するため、三岡八郎(由利公正)との面談を願い出ている。当時三岡は、挙藩上洛計画の挫折により謹慎中だった。そのため、用人の松平源三郎と目付の出淵伝之丞が立ち会うことで許され、11月2日に龍馬の止宿先の煙草屋で面談がおこなわれた。

『子爵由利公正伝』 (由利正通編)
烟草屋へ這入って龍馬と呼んだら、ヤー噺す事が山程あるといふ。其顔を見ると直に天下の事成就と思はれた。自分は罪人であるから立合人をつれて来たと断りごといへば、おれも同様付人がある、健三来よと呼ぶ、これは土佐の目付の下役で、岡本健三郎といふ人だ。共に聞けよとの事で、土佐越前の役人を左右に置き、坂本と私と両人は炬燵に這入って、徳川政権返上の次第、朝廷の事情等、曲さに聞いた。[中略]
夫から名分財源経綸の順序まで、予の貯へた満腹の意見を語り、夜半九ツ過るまで我を忘れて咄した。

三岡は、龍馬から京都の状況を聞き、新政府と幕府の武力衝突を懸念して、戦争に対する対策を問いかけた。龍馬は、これに対して「不戦なり」と答え、討幕挙兵を否定したという。

さらに、三岡が、幕府から戦争を起こした場合はどうするのかと重ねて問うと、「これ最も至難事なり。朝廷の金殻の蓄へなく、また信任の兵なし」と答えている。

続いて、龍馬は新政府の財政を充実させるための方策を、三岡に尋ねた。三岡は、新政府の威光をもって人民を信服させ、信用を基礎として金札(兌換紙幣)を発行することを説いた。

新政府綱領八策

龍馬は11月3日に福井を発ち、5日に帰京した。その後、龍馬は、新しい日本の国家構想を示した『新政府綱領八策』を執筆する。

第一義、第二義では幅広い人材の登用、第三義では国際交流の推進、第四義では憲法の制定、第五義では二院制の導入、第六義では海軍陸軍の組織、第七義では天皇を守る軍隊の組織、第八義では金銀物価の外国との平均化が述べられている。

後半部分の○○○の伏せ字に書かれるべき名は、慶喜公という説と、容堂公という説とがあるが、これを見る人々が自由に名前を入れて読むことができるよう配慮したともいわれている。

『新政府綱領八策』
第一義
  天下有名の人材を招致し顧問に供ふ
第二義
  有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ現今有名無実の官を除く
第三義
  外国の交際を議定す
第四義
  律令を撰し新に無窮の大典を定む、律令既に定れは諸侯伯皆此を奉して部下を率す
第五義
  上下義政所
第六義
  海陸軍局
第七義
  親兵
第八義
  皇国今日の金銀物価を外国と平均す

右預め二、三の明眼士と議定し諸侯会盟の日を待つて云々
〇〇〇自ら盟主と為り此を以て
朝廷に奉り始て天下万民に公布云々
強抗非礼公議に違ふ者は断然征討す、権門貴族も賃借する事なし
   慶応丁卯十一月      坂本直柔
第一義、天下有能の人材を招いて顧問にする。
第二義、有材の諸侯を選んで朝廷の官職に任命し、必要でない官職は廃止する。
第三義、外交との交際を議定する。
第四義、法律を選定し、新しく憲法を制定する。新しい制度が定まれば、諸侯はこれに基づいて家臣を統率する。
第五義、上院下院を設立する。
第六義、海陸軍局を設立する。
第七義、近衛兵を組織する。
第八義、金銀の価値を外国と平均させる。
右の項目は二、三の学識者と検討して、諸侯会議の日を待って云々。
○○○自ら盟主となり、これを朝廷に奏上し、初めて天下万民に公布する云々。
朝廷に反抗する者は断然として征討する。権門貴族といえども容赦しない。
慶応丁卯月十一月   坂本直柔

世界の海援隊は無かった?

大政奉還の後、龍馬は、新政府の人事案『新官制擬定書』を作成し、薩摩藩の西郷吉之助、大久保一蔵らに披露した。ところが、その一覧の中に、大政奉還の立役者たる龍馬の名がなかった。これを不審に思った西郷は、その旨を龍馬に尋ねた。

龍馬は役人は嫌いだと答え、「世界の海援隊でもやらんかな」と言って笑った、という有名な逸話がある。

だが、これは創作であり、事実ではない。龍馬とともに新官制案を作成した戸田雅楽(尾崎三良)の手控えには、参議候補として龍馬の名前が挙がっている。つまり、龍馬には、新政府に参加する意志があったのである。

『男爵尾崎三良手扣』
一、参議 若干名
公卿、諸侯、大夫、士庶人をもってこれに充つ。大政に参与し、かねて諸官の次官を分掌す
(暗に小松、西郷、大久保、木戸、後藤、坂本、三岡八郎、横井、長岡良之助等をもってこれに擬す)

この世界の海援隊の逸話は、陸奥宗光(陽之助)とお龍(楢崎龍)の回想をもとに創作されたと考えられている。

陸奥の回想。「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩だね。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。この時龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」

お龍の回想。「瀬戸の内海は諸君も御承知の通り、風景の佳絶なる処ですから、お良は我知らず甲板に出でて彼方此方と眺めて居ります所へ、龍馬が来て、良如何だ中々風景の好い海じやろ、お前は船が好きじやから、天下が鎮静して、王政回復の暁には、汽船を一隻造へて日本の沿岸を廻つて見やうかと、笑ひながらお良の肩を軽くをさへました、お良もぬからぬ顔で、はい妾は家なぞは入りませむからただ丈夫な船があれば沢山、それで日本はおろか、外国の隅々迄残らず廻つて見度う御座いますと云ひましたので、龍馬は思はず笑ひ出し、突飛な女だと此事を西郷に話しますと、西郷がなかなか面白い奴じや、突飛な女じやからこそ寺田屋でも君達の危うかつたのを助けたのじや、あれが温和しい者であつたら君達の命が如何なつたか分らないと果ては大笑ひに、笑つたさうです」

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