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近江屋の凶変、坂本龍馬・中岡慎太郎 暗殺さる

忍びよる危険

幕末最大のミステリーといわれる坂本龍馬暗殺事件。それは、慶応3年(1867年)11月15日に起こった。京都河原町蛸薬師下ル近江屋の2階で、坂本龍馬が数名の刺客により、中岡慎太郎、山田藤吉とともに斬殺された。

この事件は、佐幕派と倒幕派の政治闘争が、頂点に達したときに起きた出来事だった。徳川慶喜は、大政奉還によって将軍職を辞したものの、莫大な領地を所有しており、徳川家を中心とした二院制議会の設立を構想していた。一方、公家の岩倉具視、薩摩藩の西郷吉之助、大久保一蔵、長州藩の木戸貫治は、王政復古を発して将軍職を廃止し、同時に辞官納地を徳川家に迫ろうと考えていた。こうした状況の中、事件は起こったのである。

龍馬が京都に入ったのは、10月9日である。浪士の巨魁である彼の動きは、佐幕派の的であり、この一報は直ちに幕吏のもとにもたらされている。戸田雅楽の手控えにも、 「時に坂本、名を変じて才谷梅太郎と云ふ。幕吏の探偵を避くるなり。然るも尚流言あり、土佐の豪侠坂本は、頃日、浪士三百人を率ゐ窃に京師に入込めりと、幕吏の之を忌憚する事甚し」とある。

龍馬は、はじめ河原町三条にある材木商の酢屋嘉兵衛方に投宿したが、危険が迫っていることを感じ、寓居を近江屋新助方へと移した。近江屋は、河原町通り蛸薬師下ルにあった土佐藩御用達の醤油屋である。

幕吏の存在に気づいた龍馬は、安全のため土佐藩邸に入ることを望んでいた。だが、これに藩内の保守派たちが反対し、藩邸側はこれを拒んだ。脱藩罪を許されたとはいえ、かつて国法を犯した者を受け入れる雰囲気は、土佐藩になかったのである。

そこで、薩摩藩士の吉井幸輔が、龍馬を薩摩藩邸に迎え入れようとした。しかし、龍馬は母藩への遠慮からこれを断り、また、探していた松山藩関係の屋敷にも入ることもかなわず、藩邸に近い近江屋に留まることになった。

『慶応三年十月十八日 望月清平宛』
拝啓
然ニ小弟宿の事、色色たずね候得ども何分無之候所、昨夜藩邸吉井幸輔より、こと伝在之候ニ、未屋鋪ニ入事あたハざるよし。四條ポント町位ニ居てハ、用心あしく候。其故ハ此三十日計後ト、幕吏ら龍馬の京ニ入りしと謬伝して、邸江もたずね来りし。されバ二本松薩邸ニ早早入候よふとの事なり。
小弟思ふニ、御国表の不都合の上、又、小弟さへ屋鋪ニハ入ルあたハず。又、二本松邸ニ身をひそめ候ハ、実ニいやミで候得バ、萬一の時も存之候時ハ、主従共ニ此所ニ一戦の上、屋鋪ニ引取申べしと決心仕居申候。又、思ふニ、大兄ハ昨日も小弟宿の事、御聞合被下候彼御屋鋪の辺の寺、松山下陳を、樋口真吉ニニ周旋致させ候よふ御セ話被下候得バ、実ニ大幸の事ニ候。
上件ハ唯、大兄計ニ内内申上候事なれバ、余の論を以て、樋口真吉乃其他の吏吏も御御申聞被成時ハ、猶幸の事ニ候。不一
且敷 頓首頓首
十八日   龍馬
私の宿所の事を種々方々に尋ね探しましたが、適当なところが見つからず、昨夜薩摩藩邸の吉井幸輔より伝言があり、「貴方は、まだ河原町土佐藩邸には入ることはできないので、四条先斗町あたりに住んでいては用心が悪いのです。その理由は、この30日ばかり前に幕府役人が、龍馬が京都に入ったと誤伝して、土佐藩邸へ訪ねてきたからです。そういうわけで、身の安全のため二本松薩摩藩邸に早々にお入り下さい」との事でした。
私が思うに、かつて土佐国法に不都合(脱藩)をしたため、本国に対しはばかりがあって、藩邸に入ることができません。また、二本松薩摩藩邸に身をひそめることは、実に土佐藩に対し当て付けがましいので、近江屋に留まります。
万一、刺客に取り囲まれた場合は、主従共にここで一戦の上、土佐藩邸に引き取ってもらうつもりです。そこで、大兄は昨日も小弟の宿の事を心配して、方々に探し聞き合わせて下されているそうですが、土佐藩邸あたりの寺か松山藩屋敷を、樋口真吉に周旋させることをお世話いただけるなら、実にありがたいことです。
宿所の件は、大兄に内々に申し上げた事なので、他の話とあわせて、樋口真吉やその他の藩吏にも龍馬の名を出さずに周旋していただけると非常にありがたいことです。

近江屋の主人井口新助は、龍馬の身を気づかい、裏庭の土蔵に密室をつくり、万一のときには、ハシゴ伝いに裏の誓願寺へ逃られる用意をしていた。また、寝具食事の世話は、自身が運び入れるなどし、家人にもこのことを知らせていなかったという。

ところが、越前の旅から帰ってきた頃から、龍馬は体調を崩し、用達しなどに不便を覚えて、母屋の2階に移っていた。これは龍馬が襲われた11月15日の、前日のことであった。

事件当日、龍馬は午後3時頃に、近くの酒屋に下宿している福岡藤次を訪ねたが、不在であった。午後5時頃に再び訪問したが、このときも福岡は不在であり、彼の馴染みの芸者おかよと世間話をしたのち、近江屋に帰宅した。

夕方午後6時頃、陸援隊長の中岡慎太郎が、近江屋を訪ねてきた。この訪問は、前年9月12日に起きた三条制札事件で、新選組に捕らえられた土佐藩士の宮川助五郎の身柄引取りを相談するためだった。

龍馬は、2階奥の8畳間で北側の床の間を背にし、火鉢をはさんで南面して中岡と対座し、話を聞いた。2つ部屋を隔てた表の間では、従僕の藤吉が楊枝をけずっていた。

午後7時過ぎ、菊屋峰吉がやって来て、ほとんど同じ頃に岡本健三郎があらわれた。峰吉は、土佐藩邸に出入りしていた書店菊屋の息子で、このときは中岡の使いで薩摩屋に手紙を届け、その返事を持参したのであった。岡本は龍馬の随員として、越前福井へ同行した土佐藩士である。

しばらくの間話し込んでいたが、龍馬は腹が減ってきたので、峰吉に軍鶏を買って来てくれと頼んだ。岡本は一緒に食おうと誘われたが、これを機会に帰ろうと思い、峰吉とともに近江屋を出た。2人は四条通りで別れ、峰吉は四条小路の鳥新で軍鶏を注文し、午後9時過ぎに帰宅した。

近江屋の凶変

刺客が近江屋に侵入したのは、2人の出立から間もなくのことだった。

表で来客を伝える声があり、藤吉が応対に出ると、男が一人立っていた。男は名刺を差し出し、「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならば御意を得たい」と告げた。

藤吉は名刺を受け取り、2階の龍馬のもとへ届けようと、階段を上がっていった。その隙に3人の刺客が侵入し、藤吉を尾行した刺客の1人が、無言のまま抜き打ちに斬りつけた。藤吉は声を上げたが、刺客は叫ばせまいと6太刀斬り、絶命させた。

この騒ぎを聞いた龍馬は、藤吉がふざけていると思い、「ほたえな!」と大喝した。この声で刺客は標的の居場所を確信し、2人の刺客が、疾風の如く奥の8畳間に斬り込んだ。1人は、「こなくそ!」と叫びながら中岡の後頭部を斬撃した。もう1人は、龍馬の前額部を横に払った。

とっさに龍馬は、後ろの床の間に置いていた佩刀(陸奥吉行)を取ろうと身をひねったが、右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。

刀を掴んで立ち上がろうとしたが、刺客の三の太刀が襲い、鞘のままかろうじて受け止めた。だが、敵の斬撃は凄まじく、鞘越し3寸程龍馬の刀身を斜めに削り、その余勢をもって龍馬の前額部を深く薙ぎ払った。

脳漿が吹き出す重傷を受け、龍馬は、「石川、刀はないか、刀はないか」と叫びながら、その場に崩れた。

その中岡も刀を屏風の後に置いたので、それを取る間がなく短刀を取ったが、これを抜く隙もなく、鞘のまま闘った。だが、敵は巧みに寄せつけず、左右の手と両足とを斬られ、中岡は気絶した。

刺客は念のため、中岡の腰を2度斬りつけ、その死を確かめて、「もうよい、もうよい」と言って立ち去った。中岡は、この腰部に受けた痛みで蘇生したが、死を装ってやり過ごした。

しばらくして、龍馬が気を取り戻した。刀を抜いて行灯の火に照らし、中岡の方をかえりみて、「石川、手は利くか」と尋ねた。中岡は、「利く」と答えた。

龍馬は次の6畳間へはって進み、階段口から家人に医者を求めたが、その声に力はなかった。そして、かすかな声で、「おれは脳をやられた。もういかん」と言って、うつぶせたまま絶命した。

中岡も苦痛に耐えながら、中敷居から裏の物干し台へはい出て、家人を呼んだが通じなかった。さらに、屋根伝いに北隣の井筒屋嘉兵衛方の屋上まで進んだが、そこで力尽きて動けなくなった。

中岡慎太郎の証言

近江屋新助は、2階の騒動に驚いて表へ出ると、抜刀した刺客の1人が見張りをしていた。そこで、すぐに引き返して妻子を物置に隠し、裏口から蛸薬師の小路に出て、土佐藩邸に駆け込んだ。

知らせを受けた藩邸からは、下横目の島田庄作が、第一に近江屋に駆けつけた。島田は、表に見張りがいないので屋内に気を配り、抜刀して敵を待ち構えていた。

そこに、峰吉が帰ってきた。島田の姿に驚いていると、「実は今、坂本と中岡がやられた。今にも賊が降りてきたら、一刀のもとに殺してやる」と事情を聞かされた。

だが、先刻まで何事もなく、峰吉は半信半疑でツカツカと中へ入った。台所から裏口に出ると、物置の方から人の気配がした。物置の戸を開けると、そこには近江屋新助夫人が隠れていて、ガタガタと震えながら、「峰吉さん、悪者が入って、2階は大騒ぎになっている」と語った。

峰吉は、子供心に恐ろしい有様を見たくなり、台所に戻り2階へ上がった。上がり口には、背を斬られた藤吉が、横倒れに苦しんでいた。峰吉が大声で島田を呼ぶと、早速島田がやって来た。

落ち着いて四方を見渡すと、奥の間には龍馬が倒れており、隣の屋根には苦しい息の中から、助けを呼んでいる中岡がいた。峰吉は中岡を助けて、座敷へと運び出した。

その間に、土佐藩邸から曽和慎八郎、谷干城、毛利恭助が相次いで駆けつけた。峰吉は中岡の依頼を受け、白河の陸援隊本部へ向かい、この事件を知らせた。居合わせた田中顕助は、途中薩摩藩邸に立ち寄り、吉井幸輔を伴って、近江屋へ向かった。その後、香川敬三、本川安太郎も集まってきた。

中岡は、重傷ながらも意識はしっかりしており、馳せ参じた同志に向かい、次の様に語った。

「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「どうも四国人であらふ」(『谷干城講演「坂本中岡暗殺事件」』)

「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑勿れ」(秋月鏡川著 『後藤象二郎』)

「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」(『維新土佐勤王史』 瑞山会著)

田中顕助は、「長州の井上聞多は、あれ程斬られても生きたり、先生も意を強くせよ」と中岡を励まし、一時は回復して焼き飯などを食した。

しかし、後頭部に受けた深い傷が致命傷になり、次第に吐き気をもよおし、遂に17日夕刻、絶命した。享年30歳。従僕の藤吉も6ヶ所の傷を受けており、16日に絶命した。享年25歳。

龍馬が暗殺された日は、奇しくも、彼の33回目の誕生日であった。

坂本龍馬暗殺の犯人は?

慶応3年(1867年)11月15日、京都河原町蛸薬師下ル近江屋の2階で、佐々木只三郎ら7人の見廻組士に龍馬は暗殺された。この事件は幕末最大のミステリーともいわれ、実行犯と黒幕については諸説あり、主なものは次になる。

●実行犯
見廻組:佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎
●黒幕
会津藩主松平容保
●動機
伏見寺田屋で幕吏を短銃で殺害したため
●実行犯
見廻組:今井信郎、渡辺吉太郎、桂隼之助、某
●黒幕
-
●動機
幕府のためにも朝廷のためにもならない世を騒がす悪漢であるため
●実行犯
見廻組:佐々木只三郎、渡辺篤、今井信郎、世良敏郎、他2名
●黒幕
-
●動機
徳川幕府の転覆を画策しているため
●実行犯
新選組:原田左之助、他1名
●黒幕
-
●動機
徳川幕府の転覆を画策しているため
●実行犯
新選組
●黒幕
紀州藩士三浦休太郎
●動機
いろは丸号事件による多額の賠償金支払いの報復のため
●実行犯
土佐藩
●黒幕
後藤象二郎
●動機
大政奉還建白によって土佐藩を政治の主流にした功績を独占するため
●実行犯
薩摩藩:中村半次郎
●黒幕
薩摩藩
●動機
大政奉還を実現し武力討幕の障害となるとみなしたため
●実行犯
御陵衛士:服部武雄、富山弥兵衛、加納道之助
●黒幕
薩摩藩
●動機
大政奉還を実現し武力討幕の障害となるとみなしたため

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