1. 幕末最大の謎
近江屋事件とは
慶応3年(1867年)11月15日、この日の京都は朝から夕刻まで雨がふりつづける底冷えのきびしい一日でした。
その夜、河原町通蛸薬師下ル醤油商・近江屋の2階奥の間で、坂本龍馬は、同郷の同志・中岡慎太郎と岡本健三郎をむかえ、談義に花を咲かせていました。2、3日前まで、龍馬は土蔵にひそんでいましたが、風邪をひいたことなどから母屋にうつっていました。
2つ隣の部屋には龍馬の従僕である藤吉がひかえ、近所の書店菊屋のせがれ峰吉が、中岡から頼まれた手紙の返事をとどけるために来ていました。
やがて空腹をおぼえた龍馬が、「軍鶏鍋を食べたい」と言い出しました。これを引きうけた峰吉が近所に買いに出かけると、岡本も野暮用があるとして近江屋を辞去しました。2階にのこされたのは、西8畳間に龍馬と中岡慎太郎、東8畳間に藤吉の3人。
少しして数名の武士が近江屋をおとずれます。かれらは十津川郷士の名刺を差し出すと、龍馬への面会をもとめてきました。応対に出た藤吉は名刺を受けとり、取り次ぎのために階段をのぼろうとしました。
藤吉のあとを、ひそかに3人の武士がつづきました。そして階段をのぼりきったところで、背後をいきなり斬りつけました。藤吉がたおれる大きな物音に、だれかがふざけていると勘違いした龍馬は、「ホタエナ」と一喝します。
直後、ふたりの刺客が部屋に乱入しました。ひとりは「コナクソ」と発しながら、手前にいた中岡の後頭部を斬撃。同時に、もうひとりは龍馬の額を横に斬りつけました。
不意打ちを食らいながらも、龍馬は床の間にある刀を取ろうと振りむいたところを、袈裟がけに斬りつけられました。さらに迫る三太刀目を鞘のまま受けますが、またもや額を斬られ、その場に崩れ落ちました。
一方の中岡もまた、太刀を屏風のうしろに置いていたため、腰にさしていた短刀で応戦。しかし、初太刀の深手で思うように体が動かず、手足をさんざんに斬りきざまれ、とくに右手は皮一枚をのこすのみに切断され、意識を失いました。
龍馬と中岡をたおした刺客たちは、「もうよい、もうよい」との言葉をのこして引きあげていきました。一瞬の出来事でした。
ほどなくして龍馬と中岡が意識を取りもどします。龍馬は「残念、残念」と口にして、「慎太、手は利くか」と中岡に声をかけると、「おれは脳をやられた。もういかん」とつぶやき絶命しました。くしくも、この日は龍馬の誕生日でした。
中岡は痛みにたえて裏の物干しにはい出し、近江屋の家人をよびましたが応答はありません。やむなく、さらに北隣の屋根まで進みましたが、流血のためにふたたび意識を失いました。
のち急を聞きつけた土佐藩士たちが近江屋にかけつけたとき、すでに龍馬は絶命していましたが、中岡と藤吉にはまだ息がありました。しかし、藤吉は翌16日、医者の治療をうけていた中岡も17日に死去しました。
中岡慎太郎
陸援隊長。土佐国安芸郡北川郷柏木村の大庄屋・中岡小伝次の長男として生まれる。学問を間崎哲馬、剣術を武市半平太に学び、文久元年(1861年)に武市が結成した土佐勤王党に参加。文久3年(1863年)、土佐勤王党への弾圧がはじまると脱藩し長州に身をよせた。禁門の変、馬関戦争での敗北を経て、薩摩・長州の連合による武力討幕の道を模索する。坂本龍馬とともに薩長同盟の締結に奔走し、慶応2年(1866年)1月に成功。慶応3年(1867年)4月、土佐藩から脱藩罪を許されてのち、陸援隊の隊長に任ぜられる。同年11月15日夜、坂本龍馬とともに京都近江屋で暗殺された。
犯人は「京都見廻組」
坂本龍馬の暗殺は、大政奉還によって徳川幕府が瓦解し、維新政府の樹立にむけて権力闘争が激化するなかで、突然おきた出来事でした。
維新の立役者である龍馬が殺害されたこの事件は、“幕末最大の謎”ともいわれ、犯人は新選組、京都見廻組、紀州藩、薩摩藩、土佐藩と諸説入りみだれています。
当時は現場にのこされた証拠と関係者の証言から、新選組の犯行が有力視されました。しかし、明治になって維新政府に降伏した、元見廻組で衝鋒隊副隊長の今井信郎が事件への関与を自供したため、今日では京都見廻組の犯行であることが定説となっています。
ただし、今井の自供だけで確たる証拠はなく、すべての謎が解明されたわけではありません。現場にかけつけ瀕死の中岡から証言をきいた土佐藩の谷干城は、自分が見聞した事実とことなる点があり、“今井信郎は売名の徒”であると批判しています。
大政奉還を建策し、平和的な政権委譲に尽力した功労者が、なぜ殺害されなければならなかったのか。このホームページでは、同時代に記録された史料やのこされた現場証人の証言をもとに事件を再検証することで、龍馬暗殺の真相にせまりたいと思います。