RYOMADNA

見廻組・今井説 (二) 今井信郎口書

今井信郎の「兵部省口書」

元新選組隊士・大石鍬次郎の自白をうけ、兵部省(いまの防衛省)は函館で降伏した者たちの調査に着手しました。すると、坂本龍馬殺害の実行犯と名指しされていた《今井信郎》が収容されていることが判明し、ただちに東京の兵部省軍務局糾問所へうつされました。

こうして龍馬殺害に関する取り調べがはじまり、これを受けて今井は自身と京都見廻組の関与をみとめました。さらに、動機や指揮系統、襲撃者、事件の経緯についてもくわしく供述し、近江屋事件の全貌が次第にあきらかになっていきます。

岩崎鏡川編「兵部省口書」『坂本龍馬関係文書』東京大学出版会、大正15年(1926年)

兵部省口書(明治三年二月)
 箱館降伏人
 今井信郎
 午ノ三十歳
口書
(前略)
坂本龍馬を殺害の義は、見廻組与頭佐々木唯三郎より差図にて、龍馬事不軌を謀り候に付、先達て召捕に懸り候所、取り逃し候に付、此度は屹度召捕可申、万一手余候節は打果し可申旨達し有之、私義は上京早々之事故、委細の儀は承知不仕候得共、佐々木唯三郎先立渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎私共都合七人にて、瓦町三条下ル龍馬旅宿え昼参り候処、同人留守にて、其夜五ツ比再ビ参り候処在宅に付、佐々木唯三郎先へ参、跡より直ニ桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎弐楷へ上り、土肥仲蔵、桜井大三郎は下ニ扣居候処、弐楷之様子は存知不申候得共、弐楷より下り申聞候には召捕可申之処、両三人居合せ候間無拠打果し候旨申聞直に立退けと申事故、一同右場所立退、二条通りにて高橋、渡辺両人は見廻組屋敷へ帰り、佐々木は帰り(此処誤脱ナラン)、外私共は旅宿に居り候間旅宿へ帰り申候。(下略)


[現代語・意訳]

坂本龍馬を殺害した件は、見廻組与頭佐々木只三郎の差図によるものです。龍馬は謀反を企て、前年召し捕りに向かったところを取り逃がしていた(寺田屋遭難)ため、この度は確実に召し捕るため、万一手に余るときは討ち果たしても構わない、という命令が下っていました。
私は上京して間もない事だったので、詳しい事情は知りません。
佐々木只三郎が先に立ち、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎と私の計7人で、河原町三条下ル龍馬の旅宿(近江屋)を昼ごろにたずねました。ところが、本人は留守だったため、その夜五ツ(午後8時)ごろに再びおとずれたところ滞在しておりました。
そこで佐々木只三郎が先に行き、後からすぐに桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎が2階へあがり、土肥仲蔵、桜井大三郎と私は下に控えていたので、2階の様子は存じません。
2階から下りてきた者の話では、「召し捕るべきところを、2、3人が居合わせていたので、やむを得なく討ち果たした」とのことでした。「直ちに立ち退け」と指示されたため、一同はその場を立ち退きました。
二条通りで高橋、渡辺の2人は見廻組屋敷へ帰り、佐々木も宿に帰り、そのほか私たちはそれぞれの旅宿へ帰宅しました。(下略)

この供述によると、まず《動機》としては、伏見寺田屋で取り逃した坂本龍馬が謀叛をくわだてているとの情報があり、これに対応するための行動だったといいます。

《指揮系統》については、見廻組与頭・佐々木只三郎の命により出動したもので、「万一の場合は討ち果たしてもかまわない」との指示が下されました。

《襲撃者》は佐々木を筆頭に、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎のあわせて7名で、かれらは近江屋へとむかいました。

《事件の経緯》としては、昼にたずねたときは龍馬が留守で、夜にもう一度おとずれたところ、本人が滞在していました。佐々木、桂、渡辺、高橋の4人が2階へあがり、土肥、桜井と今井3人は1階にひかえました。2階に突入した者の話では、まずは捕縛を試みたけれど、2、3人が居合わせたため、やむなく討ち果たしたということです。

その後、一同はただちに現場を立ち去り、それぞれの宿舎へともどっていきました。

七人の刺客

《京都見廻組とは》
江戸幕府は、京都における治安維持を一層強化するため、元治元年(1864年)に「京都見廻役」と、その実働部隊である「京都見廻組」をあらたに設置しました。
見廻役は見廻組の上役にあたり、譜代の小大名や上級旗本が任命されました。最初に任命されたのは、備中浅尾藩主の蒔田廣孝(相模守)と旗本の松平康正(出雲守)で、両名がそれぞれ200人ずつ、合計400人の隊士を指揮する体制がととのえられました。
見廻役を補佐する幹部としては、与頭と与頭勤方が置かれ、後者には坂本龍馬暗殺事件で知られることとなる佐々木只三郎が任命されています。
組士は、主に御家人の中から剣術や槍術にすぐれた者を選抜して募集されましたが、選考基準が厳格であったため、発足当初から定員をみたすことはできなかったとされます。
見廻組の警備対象は御所や二条城周辺の官庁街であり、これに対して新選組は、祇園や三条といった町人街・歓楽街を受け持っていたため、両者の活動区域は明確にわかれていました。

《佐々木只三郎》
会津藩士佐々木源八の三男に生まれ、27歳のときに旗本佐々木矢太夫の養子となる。会津藩重臣の手代木直右衛門は実兄。剣術は神道精武流を羽島源太左衛門、槍術は宝蔵院流を沖津庄之助から学ぶ。文久3年(1863年)、新徴浪士組に参加し、その後攘夷派と通じた首謀者の清河八郎を暗殺する。元治元年(1864年)4月に京都見廻組与頭勤方となり、のち与頭に昇進し、新選組とともに尊攘派浪士を取り締まる。坂本龍馬暗殺事件では、実行部隊を指揮した人物として名が挙げられており、幕府住職からの御差図があり出動命令を出したとみられている。明治元年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで負傷し、同月8日和歌山紀三井寺で没す。

《今井信郎》
幕臣今井安五郎の長男として生まれる。剣術は直心影流を榊原健吉に学び、免許皆伝を受ける。慶応3年(1867年)、上京して京都見廻組に参加し、昇進して肝煎となる。坂本龍馬暗殺事件では、見廻組の一員として出動し、現場では1階での見張役をつとめたとされる。戊辰戦争では東北各地を転戦し、五稜郭に立てこもって官軍に抵抗したが、明治2年(1869年)6月に降伏。函館で収容中、龍馬殺害に関わっていたと自白したため投獄されたが、明治5年(1872年)に特赦放免。晩年はキリスト教に入信し、初倉村村会議員、同村長を歴任した。

《渡辺吉太郎》
天保14年(1843年)、江戸に生まれる。剣術は直心影流を男谷精一郎に学び、榊原健吉、島田虎之助は同門となる。元治元年(1864年)7月20日、京都見廻組に加わり、のちに昇進して肝煎。明治元年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いで戦死した。

《高橋安次郎》
元治元年(1864年)6月23日、見廻組御雇となり、のち伍長となる。明治元年(1868年)1月5日、鳥羽伏見の戦いで戦死した。

《桂早之助》
剣術は西岡是心流を大野応之助に学び、安政4年(1857年)に是心流九ヵ条目録を受ける。慶応3年(1867年)2月、見廻組並のち肝煎に昇格する。鳥羽伏見の戦いに参加し、明治元年(1868年)1月3日、鳥羽街道で戦死した。

《土肥仲蔵》
見廻組並。明治元年(1868年)1月5日、鳥羽伏見の戦いで負傷し、同月11日に和歌山の念興寺で自刃した。

《桜井大三郎》
元治元年(1864年)7月3日、見廻組並となる。明治元年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦いで戦死した。

今井信郎の「刑部省口書」

この供述をうけて、兵部省は今井信郎のあつかいを、それまでの旧幕府軍の戦犯から、坂本龍馬殺害の刑事犯へと切り替え、刑部省(いまの法務省)への引きわたしを決定しました。

こうして明治3年(1870年)2月21日、今井は、元新選組の相馬肇、大石鍬次郎、横倉甚五郎の3人とともに、刑部省伝馬町牢へと移送されました。

大鳥圭介『大鳥圭介獄中日記』

二十一日晴、今井信郎、相馬、大戸(大石)、横倉、四人、刑部者へ引き渡さる

ここで、ふたたび取り調べがおこなわれ、今井は先の「兵部省口書」とくらべて、さらにくわしく重要な供述をしました。

岩崎鏡川「刑部省口書」『坂本龍馬関係文書』 東京大学出版会、大正15年(1926年)

刑部省口書
 箱館降伏人
 元京都見廻組
 今井信郎 口上
 午三拾歳
(前略)翌卯年五月呼返之上、同月廿二日京都見廻り組被申付七十俵六人扶持宛行を請、旅費渡し方等及遅延候に付、同年十月始比上京、其比在京見廻り役岩田織部は就御用向帰府、後役小笠原弥八郎上京、私儀周旋方相勤居候に付、専ら諸藩士等に交接無暇、同僚の者は姓名も一々不存程に有之処、十月中比与頭佐々木唯三郎旅宿へ呼寄候に付、私並、見廻り組渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎六人罷越候処、唯三郎申聞候には、土州藩坂本龍馬儀不審の筋有之、先年於伏見捕縛の節、短筒を放し捕手の内、伏見奉行組同心二人打倒し、其機に乗じ逃去候処、当節河原町三条下る町土州邸向町家に旅宿罷有候に付、此度は不取逃様捕縛可致万一手に余り候得ば、討取候様後差図有之に付、一同召連出張可致、尤龍馬儀旅宿二階に罷在同宿の者も有之候由に付、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助は二階へ踏込、私並土肥仲蔵、桜井大三郎は台所辺に見張居、助力いたし候者有之候はゝ″、差図に応じ、可相妨旨にて、手筈相定め、同日昼八つ時比、一同龍馬旅宿へ立越候節、桂隼之助儀は唯三郎より申付けを請、一ト足先へ立越偽言を以て在宅有無相探り候処、留守中之趣に付、一同東山辺逍遥し、同夜五つ時比再び罷越、佐々木唯三郎先へ立入、松代藩と歟認有之偽名之手札差出、先生に面会相願度旨申入候処、執次の者二階え上り候、跡より引続兼ての手筈の通り、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助付入、佐々木唯三郎は二階上り口罷在、私並、土肥仲蔵、桜井大三郎は其辺に見張居候処、奥之間に罷在候家内之者騒立候に付、取鎮め、右二階上り口へ立帰候処、吉太郎、安次郎、隼之助下り来り、龍馬其外両人計合宿之者有之手に余り候に付、龍馬は討留め、外弐人之者切付疵為負候得共、生死は不見留旨申聞候に付、左候得ば致方無之に付、引取候様、唯三郎差図に付、立出銘々旅宿へ引取、其後之始末は一切不存、勿論龍馬儀旧幕に而如何様之不審有之者に哉、前件之通り新役之儀に付、更に不承且旧幕に而は閣老等重職之命令を御差図と相唱候に付、其辺より之差図歟、又は見廻り組は京都守護職附属に付、松平肥後守より之差図に哉、是亦承知不仕、其後旅宿引払二条城へ引移。(下略)


[現代語・意訳]

慶応3年5月江戸に呼び戻され、同月22日に京都見廻組を申しつけられ、70俵6人扶持の俸禄を請けましたが、旅費の支給に遅延があったので同年10月上旬頃に上京しました。在京の見廻り役・岩田織部は御用に就き江戸へ戻り、後任の小笠原弥八郎が上京したころです。
私は周旋方(対外折衝)をつとめていたので、もっぱら諸藩士らとの交際で暇は無く、同僚の姓名もいちいち覚えていませんでした。10月(11月)中ごろ、与頭・佐々木只三郎の旅宿へ呼び出され、私と見廻組・渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の6人が集まりました。
只三郎が申すには、「土州藩の坂本龍馬には不審の儀がある。前年伏見で捕縛しようとしたとき、短筒(拳銃)を放ち、伏見奉行所の同心2名打ち倒し、その機に乗じて逃げ去った。最近、河原町三条下ル土佐藩邸の向かいにある町家(近江屋)に滞在しており、今度は取り逃がさずに捕縛するため、万一手に余る場合は討ち取っても構わないとの御差図がある」ということで、一同は連れて出張しました。
もっとも龍馬の旅宿は2階で、同宿の者もいるので、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助は2階へ踏み込み、私ならびに土肥仲蔵、桜井大三郎は台所を見張り、(龍馬に)救援の者がいれば、差図に応じて防ぐという手筈を定めました。
同日昼八ツ時(午後2時)ごろ、一同は龍馬の旅宿に向かいました。桂隼之助は只三郎からの申し付けで一足先に行き、偽言をもちいて在宅の有無を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を散歩し、同夜五ツ時(午後8時)ごろに再び参りました。
佐々木只三郎が先に立ち入り、松代藩と書いた偽名の手札を差し出し、「坂本先生に面会を願いたい」と申し入れました。取次の者が2階へあがったので、後から引き続き、かねての手筈の通り、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助がつけ、佐々木只三郎は2階の上り口におりました。
私と土肥仲蔵、桜井大三郎はその辺りを見張っていると、奥の間にいた家人が騒ぎ立てました。それを取りしずめ、2階の上り口へ戻ると、吉太郎、安次郎、隼之助が下りてきて、「龍馬の外に両人ほど合宿のものがいたが手に余ったので、龍馬は討ちとめ、外2名も斬りつけ傷を負わせたが、生死は見届けなかった」と申しました。
それを聞いた只三郎は「それは致し方ない。引き取ろう」と差図しましたので、それぞれ旅宿へと引き取りました。その後の始末は一切存じません。
もちろん龍馬が旧幕府にどのような不審があった者か、前述の通り新任なので承知しておりません。旧幕府では、閣老などの重職からの命令を御差図と呼んでいましたのでその辺からの命令か、または見廻組は京都守護職に属していたので松平肥後守(容保)からの命令か、これについては承知しておりません。そのあとは宿を引き払い、二条城へ移りました。

あたらしい情報としては、「龍馬が伏見寺田屋事件で同心2人を射殺したこと」「佐々木只三郎が信州松代藩としるした名札を差し出したこと」、そして「御差図(指示)を出したのは京都守護職・松平容保であった可能性があること」などがあげられます。

一方で今井信郎は、2階にあがって坂本と中岡を殺害した実行犯ではなく、あくまで1階にいて見張り役をつとめていた、とくりかえし主張しています。


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