RYOMADNA

2. 暗殺の前夜

迫る幕吏の手

慶応3年(1867年)10月9日、坂本龍馬は、みずから周旋した大政奉還の実現を見届けるため、岡内俊太郎、中島作太郎、尾崎三良(戸田雅楽)とともに京都へ入りました。

当初は、河原町通りの車道沿いにある材木商「酢屋」の中川嘉兵衛方を下宿としていましたが、ひととの応対に不便があったため、10月13日ごろに土佐藩邸に近い蛸薬師の醤油商「近江屋」の井口新助方へとうつりました。

末松謙澄「岡内の書翰抄」『修訂防長回天史 第5篇下』大正10年(1921年)

才谷中島両人と私戸田と四人京師に着し、其日才谷中島は木屋町の商店の二階に宿し、私は河原町御邸内に入り、戸田は三條卿御邸内に入り候。翌日才谷私中島三人同伴して白川本邸内に参り石川清之助に面会方(中略)
其内才谷も木屋町の宿にては人と応対に不便に御座候故、才谷一人、中島に別れて御邸の近か河原町に転じ、中島は元との宿に止り、私は御邸に留り、石川其外は白川邸より来り、一同時々河原町の才谷宿へ寄り合い何も奔走周旋仕り時事大に迫り御建言も大に進み候(下略)

じつはこのころ、龍馬の身辺には危険がせまっていました。前年、伏見の寺田屋で襲撃を受けたさいに奉行所の捕り方を殺傷しており、それ以来、幕吏からきびしい追跡を受ける身となっていたのです。

そのため、龍馬は安全をもとめて河原町の土佐藩邸に入ることを希望しましたが、土佐藩側はこれを拒絶しました。たとえ脱藩の罪が赦されていたとはいえ、国法を犯した龍馬をむかえいれる雰囲気は、土佐藩内にはなかったのです。

龍馬の身の案じた薩摩藩士・吉井幸輔は、「土佐藩邸に入れないと聞いています。幕吏どもは薩摩藩邸にも探索に来たそうです。早く二本松の薩摩藩邸に入りなさい」と、薩摩藩邸への潜伏をすすめました。

しかし、龍馬は、「薩摩藩邸に身をひそめることは、土佐に対して実に嫌みになってしまいますので、万一の場合には、主従ともどもここで一戦の上、土佐藩邸に引きこもろうと決意しております」と、申し出を断っています。(『慶応3年10月18日付望月清平宛 龍馬書簡』)

土蔵に消えた龍馬?

こうした事情から下宿先である近江屋の主人・井口新助は、龍馬の身を案じて裏庭の土蔵の中に密室をつくり、そこを龍馬の居室としました。

万一のときには、裏手の称名寺(原文:誓願寺)へと逃れられる手はずもととのえ、新助はこのことが他人に知られないよう家族にも秘密とし、食事や寝具の世話もすべて新助がひとりで引き受けていました。

近江屋(井口)新助

土佐藩御用達醤油商。京都河原町蛸薬師下ルで醤油屋を営む近江屋の2代目。尊王攘夷派志士たちをよく支援し、鳥羽伏見の戦いのさいは軍資金・食糧を提供した。

ところが、11月11日ごろから龍馬は風邪気味となり、用事のたびに土蔵から母屋へ移動するのが不便であったため、事件前日になる14日の朝から土蔵を出て、母屋2階にある奥座敷にうつったといいます。

岩崎鏡川「井口新之助談話」『坂本龍馬関係文書 第二』日本史籍協会、大正15年(1926年)

藩邸の胥吏堀内慶助(のち良和)はこれを憂い、近江屋新助に謀りて、龍馬が福井より帰京するを待ちて龍馬をこの家に潜伏せしめぬ。新助は裏庭の土蔵の中に一室をこしらえ、龍馬をここに入れ、万一の際には、裏手誓願寺の地内に遁れ出づるべく、梯子を架し置き、寝具飲食の如きまでこの室に運び入れて、出入のものにもその所在を知らしめざる程なりしも、大胆なる龍馬は、あたかも危険の踵底に動きつつあるを知らざるものの如く、日夜同志の間を往来し、しばしば家人に注意せらるることもありしが、両三日来、風邪の気味にて使用のために母屋まで降り来ることの大儀なればとて、十四日の朝より、かの室を出で来たり、母屋の二階の奥座敷、すなわち八畳の一室に入りぬ。

はたして、通説にあるように、龍馬が土蔵の密室に潜伏していたという事実は本当にあったのでしょうか。

これを裏づける証拠としてあげられるのは、井口新助の長男・新之助がのちに語った、「裏庭の土蔵のなかに一室をこしらえ、龍馬をここに入れ……」という証言だけです。しかもそれは、新助の死後に語られた伝聞であり、どこまで正確な話だったのかは定かではありません。

近江屋事件については多くの関係者が証言をのこしていますが、誰ひとりとして土蔵の存在に言及している者はいません。

たとえば、10月中旬まで龍馬とともに「新官制擬定書」の起草にあたっていた尾崎三良は、当時の様子を自身の回顧録『男爵尾崎三良手扣』『尾崎三良自叙略伝』に記していますが、土蔵については一切触れていません。

事件当日に近江屋をおとずれた菊屋峰吉や、海援隊士の宮地彦三郎、菅野覚兵衛、さらには事件後に現場へかけつけた土佐藩士の谷干城、田中顕助らも同様に、土蔵に言及していないのです。

龍馬の不覚

また、龍馬の行動からは、土蔵に身をひそめるような切迫した危機意識は感じられません。実際、かれは身を隠すことなく、堂々と幕府関係者とも面会していたことがわかっています。

龍馬は、事件発生の5日前にあたる11月10日、土佐藩・福岡藤次とともに、若年寄格・永井尚志のもとをたずねています。永井はあいにく留守だったため、ふたりはそのまま引き返しますが、帰路の途中、市中を散歩していた薩摩藩士・中村半次郎と出会っています。(「山田・竹之内両士同行散歩のところ、途中にて土州士坂元竜馬へ逢う」『京在日記』)

そして翌11日の朝と夜の二度にわたって、龍馬は永井をたずね、さまざまなことを話し合いました。このとき、意見はピタリと一致したようで、龍馬は永井のことを《心が通じた同志》だと語っています。(「彼玄蕃ヿハヒタ同心」『慶応3年11月11日付林謙三宛 龍馬書簡』)

『慶応3年11月11日付林謙三宛 龍馬書簡』

○扨、今朝永井玄蕃方ニ参り色〻談じ候所、天下の事ハ危共、御気の毒とも言葉に尽し不被申候。大兄御事も今しバらく命を御大事ニ被成度、実ハ可為の時ハ今ニて御座候。やがて方向を定め、シユラか極楽かに御供可申奉存候。謹言。
 十一月十一日
  龍馬
 追白、彼玄蕃ヿハヒタ同心ニて候、再拝〻。

事件前日の11月14日にも、龍馬は永井をたずねようとしました。しかし、たび重なる訪問が周囲に疑念を抱かれることを恐れた永井は、「日中の来訪はひかえてほしい」、と龍馬につたえます。そのため、龍馬は人目を避けて、夜中に永井をたずねています。

中根雪江「丁卯日記」『史籍雑纂 第4』国書刊行会、明治44年(1911年)

坂本龍馬も参り候事に相成り候えども、毎々は嫌疑もこれあるに付き、夜中に出懸け候事にて、すなわち昨夜も参り申し候」

このように、龍馬は幕府高官の永井と白昼堂々と面談しています。しかも、永井の下宿先は、二条城近くの大和郡山藩の屋敷にあり、そこは京都見廻組の管轄区域でもありました。

そのころ、不穏なうわさを耳にした寺田屋お登勢は、龍馬の身を案じて手代の寅吉を使いに出します。そして、「近江屋から土佐藩邸にうつるように」との手紙を龍馬にとどけさせています。

これに対して龍馬は、「先日、永井尚志様や京都守護職である会津藩主・松平容保公とお会いました。いまでは何も心配はないので、安心してください」と、笑って応じたといいます。

「伏見寺田屋の覚書」『伝記 第9巻・第5号』伝記学会、昭和17年(1942年)

その後、慶応三年十一月十五日、阪本殿・中岡殿、京都河原町醤油屋の二階にて遭難の前日、亡母、密かに聞き込み候ことこれあり、手代寅吉と申す者に手紙を持たせ、京都河原町の寓居に遣わし、下宿におられ候ことはなはだ危険に付き、速やかに邸内に移られしかるべくと勧め候ところ、阪本殿はその使いに返事せられ申さるる様は、過日、永井玄蕃頭・会津肥後守等に面会し、今は何も憂うることなし、安心せよとのことにて候。しかるに、あにはからんやこれぞ果敢なき最後の名残りとあいなり、亡母は千秋の遺憾とは実にこのことなりと、始終愁嘆いたし申し候。

幕吏にとって龍馬は依然として危険人物と見なされていました。しかし龍馬自身は、若年寄格の永井尚志や、京都守護職の松平容保といった幕府重職から信頼を得ていると考えており、自身の身の安全は保障されていると感じていたようです。

つまり、この時点で龍馬は、幕府高官との接触を通じて、自身の立場にある種の安心感をいだいていたと考えられます。

こうした認識こそが、龍馬の危機意識をにぶらせた要因だったのかもしれません。ただし、この話は事件から数十年後に寺田屋の遺族によって語られたものであり、ほかの史料には記録がみられないことから、その真偽は定かではありません。


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