RYOMADNA

3. 11月15日

京都は雨だった

坂本龍馬最後の日。慶応3年(1867年)11月15日の京都は、前日から降りつづいていた雨が午前9時ごろにいったん止み、午後からは降ったり止んだりをくり返し、夜にはすっかりあがっていました。

大塚武松編『嵯峨実愛日記:原題続愚林記』

十五日甲子 雨降、辰半後雨休、午後晴雨交、雲南行

午後3時ごろ、近江屋に滞在していた龍馬は、近くの酒屋・大和屋に下宿していた土佐藩参政・福岡藤次のもとをたずねました。この日には、中岡慎太郎が龍馬をたずねて近江屋に来ていたため、3人で会談する予定があったと考えられます。

しかし福岡は不在だったため、龍馬はいったん近江屋へもどります。午後5時ごろにふたたび大和屋を訪問しましたが、福岡はまだ帰っていませんでした。

このとき福岡の従者が龍馬に対し、「先ほど名刺を持った使者が、『坂本先生はお宅に来ていませんか』とたずねてまいりました」と告げました。

龍馬はその帰りぎわ、留守をしていた福岡の愛人・おかよに、「福岡先生のお帰りは遅いようだ。帰ってくるまで、僕の宿に話しにおいで」と声をかけ、近江屋へもどりました。

誘いをうけたおかよは一度は出かけようとしましたが、従者に引き止められたので断ったことで、結果的にその夜の難を逃れることができました。(「福岡子爵未亡人より実話を拝聴」『雋傑坂本龍馬』)

この日のことについて、のちに福岡藤次は次のように語っています。武力討幕派であった中岡は、公武合体派の後藤象二郎や福岡を嫌い、場合によっては斬ることも辞さない覚悟でした。しかし、龍馬の周旋によって、そうした危険は回避されつつあり、そのことを伝えるために近江屋をおとずれたのだといいます。

「福岡孝弟・談話」『温知会速記録』

坂本は中岡と談話中のところをやられたものですが、龍馬は私のかえらぬ留守に二、三度きております。それはどうかと言うと、前にお話したように、中岡がどうしてもきかない、ところが、いろいろ折れおうたものであるから、そこで留守へきて言うには、私に安心させようと思うてきたものらしい。最後にきたときにそれをいうたようです。だいぶ中岡が折合いがついたということを、坂本が言うておったという話で、それで私に安心させようとしたことがわかりましたが、私がかえってみるとやられていた。
枝のお話になるが、私もほとんど中岡には刺されようとしたことがあります。その申し分によっては、私を刺すつもりでくると、私がそこにおらぬゆえ、止んだというようなことが一度ありました。

十一月十五日、近江屋ニテ

夕刻、陸援隊長の中岡慎太郎は、河原町通りにある書店「菊屋」をおとずれました。ここは土佐藩邸にもほど近く、中岡がかつて下宿していた縁もあり、店の家人や息子の峰吉とは親しい間柄でした。

このとき中岡は、同志あての手紙を峰吉に託し、「この手紙を薩摩屋にとどけ、返事を近江屋まで届けてほしい」と依頼しました。(『菊屋峯吉談話』)

菊屋峰吉
菊屋峰吉
菊屋峰吉

土佐藩御用達の書店菊屋の長男。龍馬や中岡慎太郎に「峰や」と呼ばれ、可愛がられていた。近江屋事件では、龍馬の使いで出ていたため難をまぬがれており、事件を白河陸援隊屯所に知らせている。明治10年(1877年)の西南戦争では、熊本鎮台司令長官谷干城の知遇を得て、会計方軍夫として従軍した。

近江屋へむかう途中、中岡は近くに下宿していた土佐藩士・谷干城をたずねます。谷は上士で小目付役をつとめていましたが、かねてより親交があり、武力討幕という点では中岡と近い考えをもつ人物でした。

しかし、あいにく不在だったため、中岡はそのまま近江屋へと向かい、午後6時ごろに到着しました。

この日の訪問は、三条制札事件で新選組にとらえられていた土佐上士・宮川助五郎の身柄引き取りについて相談するためだったといいます。

宮川は元土佐勤王党の同志で、前年9月、京都三条大橋にかかげられた長州藩を非難する制札を破棄し、新選組にとらえられていました。その後、会津藩は土佐藩との衝突をさけるため、両藩の重臣が交渉して手打ちがはかられ、宮川を釈放することで合意しました。

ただし、宮川は脱藩の身で事件をおこしていたため、土佐に送還されれば厳罰はまぬがれません。そこで、参政の福岡は窮余の策として、中岡にその処置を一任。中岡がこの夜、龍馬を訪問したのは、この件について協議するためでした。

宮川助五郎

土佐藩士。家格は馬廻役という上士であったが、土佐勤王党に加盟して尊攘運動に奔走。文久2年(1862年)、山内容堂の護衛を目的とした五十人組を結成し、総組頭として江戸に出る。慶応2年(1866年)9月、三条大橋の制札を破棄しようとして新選組に捕縛されたが、のちに土佐藩に引き渡された。戊辰戦争に従軍して戦功を立て、明治3年(1870年)3月に死去した。

龍馬は近江屋2階の奥8畳間に中岡をむかえ入れ、床の間を背にしてすわり、火鉢を囲んで話を聞きました。となりの部屋では、元相撲取りの従僕・山田藤吉が、内職の楊子削りをしていました。1階には近江屋の主人・新助と妻すみ、ふたりの子供がいました。

近江屋の2階
近江屋の2階

龍馬と中岡が面談していると、大坂へ出張していた海援隊士の宮地彦三郎が、帰京の報告のため近江屋を訪れます。宮地が階下からあいさつの声をかけると、龍馬は大きな声でねぎらい、「2階にあがってこないか」と誘いました。中岡もつづけて「彦三郎、あがって来い」と声をかけました。

帰途についたばかりの宮地は、「ひとまず宿に帰り、旅装を解いた後で伺います」とこたえ、いったん下宿へと引きあげていきました。宮地の証言からは、ふたりに警戒している様子は感じられません。

宮地美彦『宮地彦三郎真雄略伝』

長岡は猶ほ大阪に滞在し、彦三郎は同(十一月)十五日伏見を過ぎて帰京し、河原町なる近江屋新助方に坂本隊長を音づれしに、坂本は二階座敷に在りて中岡慎太郎と曩に事によりて会津藩吏に捕へられし宮川某等を、藩へ引取りの件につき密議中なりしが、二階より声高にて使命を終へて帰京せるを労し、且つ二階に上り来らぬかと云はれ、中岡氏も亦、彦三郎上り来らずや、と云はれしも、帰途なれば一先づ帰宿して旅装を解きて改めて御伺せんと、階下より挨拶してやがて下宿に帰りたり。帰宿後少時にして同志より、唯今近江屋へ刺客来襲して坂本、中岡二隊長を殪せりとの急報に接し、愕き馳せて近江屋に到れば、既に藩邸の人々、同志の者等座に在りしが、坂本氏は一言二言許り話して間もなく息絶え、又刺客の取次をなせる僕藤吉も重傷のため虫の音をもらすのみ。
中岡氏は重傷なれども元気に刺客の様子、進入前後の模様など語りて同志の将来を誡められたり。かくて同夜は同志の人々と共に近江屋にて夜伽をなし、或は第二の刺客襲来に備ふるため、相当の警戒をなせり。
翌十六日も中岡氏の手当て、坂本氏の葬式準備をなせしが、同日僕藤吉も終に絶命し、又其翌十七日には、中岡氏も亦終に逝けり。嗚呼両隊長を一時に撃れし同志の感慨如何ぞや。一同悲憤の涙を呑んで警戒に、両雄の後始末に、復仇に、其他何くれと奔走し、十七日夜に入り両隊の士は短銃を懐中し、或は匕首を袴下にせて、藩内外の有志と共に両隊長の遺骸を衛りて、霊山に埋葬式をあぐ。彦三郎亦短銃を懐にして葬式に列す。

最後の軍鶏鍋

その後、近江屋をおとずれたのは菊屋峰吉と土佐藩下目付・岡本健三郎でした。峰吉は中岡にたのまれた用事をおえて、午後7時ごろに近江屋に到着。ほぼ同じ頃に岡本もあらわれ、龍馬の雑談にくわわりました。

岡本健三郎
岡本健三郎
岡本健三郎

土佐藩士。後年の松平春嶽の回顧によれば、文久2年(1862年)に龍馬とともに勝海舟への紹介状を求めたとある。慶応3年(1867年)10月、松平春嶽の上洛を求める龍馬に同行して越前福井を訪れ、三岡八郎(由利公正)との会談に同席した。維新後は大政官権判事、大蔵大丞を歴任したが、明治6年(1873年)、征韓論に敗れて下野。板垣退助らとともに民選議院設立建白書作成した。晩年は実業界に入り、日本郵船会社の理事などをつとめた。

しばらくすると、空腹をおぼえた龍馬が、「腹が減った。峰、軍鶏を買ってこい」と言い、中岡も「おれも減った。一緒に食おう。健三郎、お前も食っていけ」と応じました。しかし岡本は、「私はまだ欲しくない。ちょっと行くところがある。峰といっしょに出よう」と答えます。

すると中岡が、「また例の亀田に行くのだろう」と、馴染みの女のもとへ出かけるのではないかと冗談めかして冷やかします。頭をかきながら岡本は、「けっして左様じゃない。別の用事がある」といい、峰吉とともに近江屋を出ました。

このとき、2階の奥8畳間では藤吉が楊枝をけずっており、「おれが行こうか」と峰吉に声をかけましたが、「いや、私が行ってくる」と言って、峰吉はそのまま出発しました。2階には龍馬と中岡、それに藤吉の3名だけがのこされました。

暗殺直前の配置図
暗殺直前の配置図

四条通りで岡本とわかれた峰吉は、近くの鳥肉屋・鳥新にむかいました。ところが、あいにく軍鶏は売り切れ。用意までに30分ほどかかり、峰吉が近江屋へもどったのは午後8時をすぎていました。(『菊屋峰吉(鹿野安兵衛)談話』)

その間に、惨劇はおこりました。


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