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5. 中岡慎太郎の証言

駆けつけた同志たち

土佐藩邸と近江屋は、通りをはさんだ向かいにありました。井口新助から異変の知らせをうけた藩邸では、下横目の島田庄作がただちに派遣され、つづいて藩医の川村盈進(かわむら えいしん)が近江屋に到着し、負傷者の治療にあたりました。

坂本龍馬は眉間のあたりを深く斬られており、体温こそのこっていましたが、すでに事切れていました。一方の中岡慎太郎は、全身にわたり数十ヶ所を斬られる重傷を負いながらも意識はあり、言葉を発することも可能な状態でした。

福岡藩御用達の呉服商・馬場文英が書いたとされる『土藩坂本龍馬伝』には、「其遺骸を点検するに、直柔は大小三十四ヶ所。慎太郎は大小とも二十八ヶ所。僕藤吉は大小共に七ヶ所の痍を受得たり」との記録があり、龍馬と中岡の体には無数の刀傷があったことがわかります。

やがて、土佐藩邸から曽和慎八郎が、また大森方(あるいは越後屋)からは谷干城と毛利恭助がかけつけました。その後、白峰駿馬や宮地彦三郎らも現場に姿を見せ、あわただしくも懸命な処置に取りくみました。

襲撃事件の情報は、土佐藩上層部にも迅速につたえられていました。側用役の寺村左膳は、芝居見物のかえり道で家来から「龍馬は即死。中岡は息があり、治療を受けています」と、日記『寺村左膳道成日記』にしるしています。

同じように事件の報告をうけた参政・福岡藤次は、ただちに各方面へ使者を派遣しました。これをうけて在京の海援隊士・土岐真金が、岡本健三郎とともに近江屋に急行しました。

かれらが到着した時点でも、中岡にはまだ意識があり、土岐と岡本は介抱をしながら襲撃の様子を聞きとり、遅れて到着した田中顕助にもその内容をつたえたといいます。

「陸援隊に通知せよ」との中岡の命を受けた菊屋峰吉は、ただちに馬を走らせ、白川の土佐藩邸内にある陸援隊本陣へ急報をとどけました。その場に居合わせた田中顕助は、この一報を聞くやただちに藩邸を飛び出し、途中で二本松の薩摩藩邸で吉井幸輔と合流し、近江屋へ急行しました。

ほどなくして、陸援隊士の本川安太郎と香川敬三も、相次いで現場に到着しました。

谷干城
谷干城
谷干城

土佐藩士。子爵。江戸に出て安井息軒に学び、帰国して藩校致道館の史学助教授に任ぜられた。文久元年(1861年)、武市半平太と出会って尊王攘夷に傾倒し、慶応2年(1866年)の長崎視察のさい、後藤象二郎や坂本龍馬と交わる。翌年5月には、中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷吉之助らと会見し、薩土討幕の密約を結んだ。戊辰戦争では藩兵大監察として戦功を立て、維新後は陸軍に出仕。明治10年(1877年)、西南戦争の際には熊本城を死守し、勇名を馳せた。

田中顕助
田中顕助
田中顕助

土佐藩士。伯爵。武市半平太に師事し、土佐勤王党に参加。八月十八日の政変を契機に弾圧がはじまると、元治元年(1864年)には脱藩して長州に渡り、高杉晋作の知遇を受ける。慶応3年(1867年)、中岡慎太郎率いる陸援隊に幹部として加わる。中岡亡き後は副隊長として同隊を統率し、鳥羽・伏見の戦いでは高野山に陣取って紀州藩を牽制した。維新後は宮内大臣などの要職を歴任し、政界引退後は維新志士の遺墨の収集、保存に尽力した。

慎太郎はかく語りき

瀕死の重傷を負いながらも、中岡慎太郎の意識はなおはっきりしており、あつまった同志たちに向かって次のように語りました。

    1. 『後藤象二郎』
      「因循姑息と罵りし幕府党中にも、這般の挙をなすものあり、諸君決して等閑なる勿れ」
      「誠に遺憾千万であるが、併し此通りである。速くやらなければ君方もやられるぞ」
    2. 「明治39年谷干城講演」『谷干城遺稿』
      「なかなか実にどうも鋭いやり方で自分等も随分従来油断はせぬが、何しろ非常な所謂武辺場数の奴に相違ない。此くらい自分等二人居つて不覚を取ることはせぬ筈だが、どうする間もない。たつたコナクソと言ふ一言でやられた」
    3. 「伯爵田中光顕口述」『坂本龍馬関係文書』
      「突然2人の男が2階へ駆上つて来て斬り掛つたので、僕は兼て君(即ち伯)から貰つて居た短刀で受けたが、何分手許に刀が無かつたものだから不覚を取つた」
    4. 『維新土佐勤王史』
      「手許に刀を置かざりし故に、不覚を取りき、諸君今後注意せよ」

陸援隊副長の田中顕助は、「長州の井上聞多をご覧なさい。あれ程斬られても、まだ生きている。先生、決して力を落とされるな」と枕もとではげましました。井上の遭難とは、元治元年(1864年)9月、襲撃を受けて数十カ所を斬られながらも、医師の治療によって一命を取りとめた出来事をさします。

その後、中岡は一時的に元気をとりもどし、焼き飯を口にするなど回復のきざしをみせました。しかし、後頭部の深い傷が致命傷となり、やがて吐き気をもよおし、容態は急速に悪化していきました。

みずからの死期をさとった中岡は、後事を諸士にたのみ、とくに香川敬三には「天下の大事は偏に岩倉公の之を負荷せられんことを願ふのみ、子之を岩倉公に告げよ」(多田好問編『岩倉公実記』)と遺言しました。

そして、慶応3年(1867年)11月17日の夕刻、中岡慎太郎は息をひき取りました。享年25歳。


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