RYOMADNA

8. 近江屋事件の諸説

京都見廻組・今井信郎説とは

坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」において、現在もっとも有力視されているのが、京都見廻組による襲撃説です。この説によれば、龍馬はかつて寺田屋で伏見奉行所の役人を殺傷した罪(「寺田屋遭難」)があり、京都守護職・松平容保の特命をうけた京都見廻組が捕縛にむかい、手にあまった末に殺害したといいます。

この襲撃に加わったとされる今井信郎は、維新後に事件への関与をみとめ、明治政府による裁判で禁固刑を科されました。のちに赦免され、晩年は静岡で隠棲していましたが、後年、新聞記者に語った談話が「坂本龍馬殺害者(今井信郎氏実歴談)」として新聞に掲載され、大きな論争をよびました。

  • 実行犯
    1. 京都見廻組
      佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎
  • 黒幕
    1. 京都守護職・松平容保
  • 目的
    1. 奉行所の同心を殺傷しているため捕縛(結果的に殺害)
  • 論点
    1. 明治3年(1870年)、明治政府に捕縛された新選組の大石鍬次郎は、兵部省および刑部省の取り調べに対し、「龍馬暗殺は今井信郎ら京都見廻組の仕業である」と証言した。一度は自ら新選組の犯行であると自供しているが、拷問をのがれるためであったとして後にこれを撤回。
    2. 明治3年(1870年)、明治政府に捕縛された京都見廻組の今井信郎は、兵部省および刑部省の取り調べにおいて、坂本龍馬殺害への関与をみとめ、裁判で禁固刑を言い渡された。
    3. 明治33年(1900年)、『近畿評論』に「坂本龍馬殺害者(今井信郎実歴談)」と題する今井信郎の告白記事が掲載された。ただし、これは今井自身が発表したものではなく、友人の息子・結城礼一郎に話した世間話が地方紙に掲載され、それが無断転載されたもの。
    4. 明治39年(1906年)、元土佐藩士・谷干城は、講演「坂本中岡暗殺事件」のなかで今井信郎の京都見廻組説に反論し、「龍馬暗殺は、紀州藩が新選組に依頼して実行したものである」と主張した。

京都見廻組・渡辺篤説とは

坂本龍馬は徳川幕府の転覆を企てる危険人物と見なされ、京都見廻組与頭・佐々木只三郎の判断によって殺害されたとする説です。その根拠とされるのが、襲撃に加わったと自称する元京都見廻組・渡辺篤による犯行の告白です。

ただし、龍馬暗殺に関与した今井信郎の供述には、渡辺の名前は一切登場せず、渡辺の証言はあくまで自身の申告によるものにすぎません。なお、今井の関与は明治政府の裁判で正式に認定されています。

また、この告白は事件から半世紀以上が過ぎた大正4年(1915年)、大阪朝日新聞に「阪本龍馬を殺害した老剣客 -悔恨の情に責られて逝く-」と題して掲載されたもので、渡辺がみずから名乗り出たことから売名目的との見方もあり、証言の信ぴょう性には疑問がのこるとされています。

  • 実行犯
    1. 京都見廻組
      佐々木只三郎、渡辺篤、今井信郎、世良敏郎、ほか2人
  • 黒幕
    1. 京都見廻組与頭・佐々木只三郎
  • 目的
    1. 徳川幕府転覆の計画した危険人物と見なし排除
  • 論点
    1. 今井信郎の自白調書(明治3年)および告白記事(明治33年)のなかには、渡辺篤の名前は一切登場しない。姓が同じ渡辺吉太郎は別人である。
    2. 渡辺篤は、明治13年(1880年)に手記『履歴書原本』を記録したとされ、明治44年(1911年)に自伝『渡辺家由緒暦代系図履暦書』を執筆している。
    3. 大正4年(1915年)、大阪朝日新聞に「阪本龍馬を殺害した老剣客 -悔恨の情に責られて逝く-」と題する渡辺篤の告白が掲載され、渡辺が自らの犯行を告白した。
    4. 遺留品である《鞘》の持ち主について、今井信郎は「渡辺吉太郎のもの」と証言している一方で、渡辺篤は「世良敏郎のもの」と主張しており、証言が食い違っている。

新選組説とは

紀州藩は、いろは丸号事件で海援隊に巨額の賠償金を支払うこととなり、その報復として、同藩士の三浦休太郎が新選組をうごかし、坂本龍馬を殺害させたとする説です。紀州藩には経済的な動機があることにくわえ、実行犯と目された新選組は反幕府勢力を弾圧していたことから、事件直後にはこの説が有力視されていました。

いろは丸号事件

慶応3年(1867年)、坂本龍馬ひきいる海援隊の蒸気船「いろは丸」が、瀬戸内海で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し沈没した。紀州藩は御三家の威光をもって事態の収束をはかろうとしたのに対し、龍馬は土佐藩を後ろ盾にして強気の交渉にのぞみ、当時としては異例の賠償金(約8万3千両)を獲得した。この事件で紀州藩の面目は完全に失われ、藩内に龍馬を敵とする空気がひろまって、龍馬暗殺の陰謀を画策したと憶測をよびました。

裏づける傍証としてあげられるのが、現場にのこされた鞘と、襲撃者の発したとされる「コナクソ」の声音です。調査にあたった土佐藩の谷干城が証拠品を御陵衛士残党に確認させたところ、「鞘は新選組の原田左之助のものに間違いない」との証言を得て、谷は新選組の犯行であると断定しました。

  • 実行犯
    1. 新選組
      原田左之助、ほか
  • 黒幕
    1. 紀州藩御用人・三浦休太郎
  • 目的
    1. いろは丸事件で海援隊に巨額の賠償金を支払わされたことへの報復として、坂本龍馬を殺害
  • 論点
    1. 土佐藩士・谷干城が事件の調査をおこない、現場にのこされた鞘と、中岡慎太郎がきいたという襲撃者の声音(「コナクソ」)から、「紀州藩の依頼を受けた新選組・原田左之助らの犯行」と結論づけている。
    2. 慶応3年(1867年)11月、大目付・永井尚志が、新選組局長・近藤勇を呼び出し、龍馬暗殺に関する取り調べを実施。近藤は関与を否定した。
    3. 慶応3年(1868年)12月、海援隊および陸援隊士の一部が、「事件は紀州藩の謀略である」として、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃(天満屋事件)。このさい、警護にあたっていた新選組がこれを撃退し、かえって事件への関与を疑われることとなった。
    4. 明治3年(1870年)、明治政府の取り調べを受けた新選組隊士・大石鍬次郎、相馬肇、横倉甚五郎らは、いずれも龍馬暗殺への関与を否定している。

薩摩藩陰謀説とは

薩摩藩が主導する武力討幕を推し進めるため、その障害となりかねない大政奉還を実現させた坂本龍馬が、邪魔な存在となり謀殺されたとするのが、薩摩藩陰謀説です。

黒幕としては、西郷吉之助や大久保一蔵(のちの大久保利通)らの名前があげられ、実行犯には京都見廻組、御陵衛士、あるいは薩摩藩士・中村半次郎(のちの桐野利秋)らが関与したとする諸説があります。

確たる証拠はとぼしいものの、「薩摩藩にとって龍馬は邪魔な存在となった」という明快な構図から、この説は一定の関心をあつめてきました。

  • 実行犯
    1. 京都見廻組、御陵衛士、薩摩藩士・中村半次郎
  • 黒幕
    1. 薩摩藩中枢(西郷吉之助・大久保一蔵ら)
  • 動機
    1. 大政奉還を成功させ、武力討幕を崩しかねなかった坂本龍馬を排除するため
  • 論点
    1. 薩摩藩の関与をしめす明確な証拠や証言は現存していない。
    2. 実行犯=京都見廻組の場合、薩摩藩が龍馬の居場所を京都見廻組に提供し、暗殺を依頼したとする。
    3. 実行犯=御陵衛士の場合、新選組から分離したかれらを庇護する見返りに龍馬を暗殺させ、事件後には「遺留品の鞘は新選組隊士・原田左之助のものと相違ない」と偽証させたとする。
    4. 実行犯=中村半次郎の場合、薬丸自顕流の使い手で「人斬り半次郎」の異名をもつ中村には、暗殺を実行するだけの力がある。事実、慶応3年(1867年)9月には、洋式兵学の師範であった赤松小三郎を、幕府の密偵と見なして暗殺に及んだとする記録がのこっている。

土佐藩内部抗争説とは

大政奉還の功績を独り占めしようとした土佐藩参政・後藤象二郎が、発案者である坂本龍馬を謀殺したとする説です。一方で、武力討幕派の台頭により、公武合体派を推進していた龍馬が土佐藩内で排除対象となったとする見方もあります。さらに、岩崎弥太郎が、いろは丸号事件の賠償金を獲得し、長崎貿易の利権を独占するために、坂本龍馬の暗殺を画策したとする説も存在します。

坂本龍馬暗殺【主要説別の強みと弱み】

説名 強み(支持される理由) 弱み(疑問点・課題)
京都見廻組・今井信郎説 ◆ 今井信郎が坂本龍馬殺害への関与を自供し、禁固刑に処された唯一の実行犯である。
◆ 同心殺傷(寺田屋事件)に対する報復という動機があり、見廻組の任務とも整合する。
◆ 短時間かつ確実に実行された襲撃手口が、見廻組の能力に合致している。
◆ 今井信郎の供述には時期による食い違いがあり、信ぴょう性に疑問が残る。
◆ 見廻組の組織的命令か佐々木只三郎の個人判断かが不明。
◆ 暗殺を命じた黒幕(松平容保など)が不明確。
京都見廻組・渡辺篤説 ◆ 渡辺篤が晩年に「坂本龍馬暗殺に加わった」と自ら証言し、その談話が新聞記事に記録されている。
◆ 証言では、京都見廻組与頭・佐々木只三郎の指示で行動したとされ、見廻組の動きとも整合する。
◆ 坂本龍馬が幕府転覆を企てる危険人物と見なされたという時代認識と符合する。
◆ 渡辺篤の名前は、今井信郎の自白や当時の公式記録に一切見られず、裏付けがない。
◆ 告白は事件から半世紀ちかく後に新聞で発表され、信憑性が疑問視される。
◆ 死を前にした告白であり、売名行為の可能性も指摘されている。
新選組説(紀州藩黒幕説) ◆ いろは丸事件で海援隊に賠償金を支払った怨恨があり、紀州藩側に動機があった。
◆ 現場に残された鞘が「原田左之助のもの」とする証言があり、新選組犯行説を補強。
◆ 暗殺直後、三浦休太郎(紀州藩士)を新選組が護衛していた事実が疑惑を深めた。
◆ 新選組局長・近藤勇は関与を否定し、証拠不十分で処罰もされなかった。
◆ 紀州藩から新選組への暗殺依頼を示す証拠はない。
◆ 新選組と坂本龍馬個人との間に、明確な敵対関係がなかった。
薩摩藩陰謀説 ◆ 武力討幕を進める薩摩藩にとって、大政奉還を成功させた坂本龍馬は政治的に邪魔な存在だった。
◆ 「武力討幕を急ぐ薩摩藩 vs 大政奉還を成し遂げた龍馬」という対立構図が明快で、説得力がある。
◆ 西郷吉之助・大久保一蔵ら、暗殺を指導できる立場の黒幕候補が実在する。
◆ 龍馬暗殺への関与を示す一次史料が一切存在しない。
◆ 坂本龍馬は薩摩藩と協調(薩長連合成立など)もしており、単純な敵対関係ではない。
◆ 実行犯(見廻組、御陵衛士、中村半次郎など)が特定できていない。
土佐藩内部抗争説 ◆ 坂本龍馬の目立つ存在が、土佐藩の大政奉還功績を奪う懸念があった。
◆ 土佐藩内では、大政奉還推進派と武力討幕派が対立していた。
◆ 岩崎弥太郎に、いろは丸事件賠償金や長崎貿易利権を独占したい経済的動機があった。
◆ 後藤象二郎は坂本龍馬と協力関係にあり、排除する動機は弱い。排除はむしろ後藤自身に不利益をもたらす。
◆ 坂本龍馬死亡による岩崎の利益は「結果論」にすぎず、意図的な暗殺計画を裏付ける証拠がない。
◆ 暗殺が発覚すれば土佐藩の信用を失う危険があり、実行する合理性に乏しい。

 TOP