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見廻組・今井説 (一) 坂本龍馬殺害者

今井信郎・略歴

天保12年(1841年)10月2日、今井信郎は、江戸本郷湯島天神下の幕臣・今井安五郎の長男としてうまれました。

安政5年(1858年)、18歳で直心影流・榊原鍵吉の門下に入り、3年ほどで免許を伝授され、講武所の師範代になります。

文久3年(1863年)に神奈川奉行支配定役に転属され、のち同定役元締。慶応2年(1866年)春、関東郡代岩鼻の陣屋にまねかれ、剣術教授方をつとめました。

慶応3年(1867年)5月、江戸に呼びもどされ、京都見廻組への編入を拝命します。10月に上京し、肝煎に昇進。

京都市中の治安維持にあたり、同年11月、与頭・佐々木只三郎指揮のもと坂本龍馬、中岡慎太郎の殺害に関与したといいます。

その後、勃発した鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に帰還し、混迷する幕府歩兵の鎮撫にあたります。このとき組織された衝鋒隊の副隊長をつとめ、戊辰戦争では北越・会津と転戦し、最後の箱館戦争まで戦いぬきました。

明治2年(1869年)、新政府に降伏し謹慎を命じられますが、翌3年、龍馬殺害に関する余罪があるとして江戸に移送されます。

このとき兵部省・刑部省の取り調べを受け、龍馬殺害の関与を自白したため禁固処分を受けました。

明治5年(1872年)、特赦により釈放されましたが、今井家の家伝では西郷隆盛の助命嘆願があったといいます。

晩年はクリスチャンとなり、静岡県榛原郡初倉村に帰農し、初倉村の村議および村長をつとめました。大正7年(1918年)6月25日、78歳没。

今井信郎
今井信郎

函館降伏人

明治2年(1869年)5月18日、戊辰戦争の最後の戦闘である箱館戦争が終結します。

降伏した旧幕府軍の将兵は、函館や青森の寺院に収容されたのち赦免されましたが、総裁をつとめた榎本武揚ら幹部数名は東京に移送され、兵部省軍務局の糾問所に投獄されました。

このとき元京都見廻組で衝鋒隊副隊長の今井信郎、新選組だった横倉甚五郎も糾問所におくられ、官軍に抵抗したことにくわえて、“余罪”があるとして取り調べをうけました。

大鳥圭介『大鳥圭介獄中日記』

九日 昨夜今井信郎、横倉甚五郎函館より着。右両人は神木隊、社稜隊、岡崎、唐津、桑名其外藩士都合百六十四人と十一月四日函館出帆、同七日夜着。両人より外の者は芝増上寺にて謹慎す。

余罪とは、「坂本龍馬殺害」です。

多くの降伏人がいるなかで、今井と横倉に疑いがかけられたのは、一度は新選組の犯行をみとめた大石鍬次郎が、「坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺した件は、我われ新選組ではなく、見廻組の今井信郎たちの仕業である」と証言したからでした。

大石鍬次郎の自白

大石鍬次郎は、元治元年(1864年)の新選組隊士募集に応じて入隊し、三条制札事件、伊東甲子太郎暗殺事件などで活躍をみせ、「人斬り鍬次郎」と恐れられた人物です。

慶応4年(1868年)1月に、新選組が鳥羽・伏見の戦いで江戸に敗走したあとも、3月の甲州勝沼の戦いに参加しますが、下総流山で局長・近藤勇が新政府軍に投降すると、隊を脱走しました。

妻子とともに江戸に潜伏していましたが、この情報をつかんだ御陵衛士残党の加納鷲雄と阿部十郎のはかりごとにより、懇意にしていた三井丑之助にだまされ捕縛されました。

阿部十郎『史談会速記録』90輯

私が戊辰の十二月、奥州から帰りまして東京へ着きました。かねて大石が東京におるということを聞いておるけれども、何分、捜索が届きませぬで、(中略)三井丑之助という者が、白河の戦で降伏して薩州藩になっておった。三井は大石と懇意な中でありまして、大石を捜索するにはどうしても三井の手でなければいかぬというので、(中略)加納と三井と探索いたしまして、加納の家へ大石を呼びまして、そうして生け捕りました。その時分に、東京府に刑罪を司っておる刑法局というものがありました。そこへ大石を捕縛してからやって、斬罪になりました。明治二年でございます。

御陵衛士とは、新選組から分離した伊東甲子太郎の一派で、昨年、新選組の襲撃を受け伊東以下4人が殺害され壊滅。復讐に燃える加納は、厳しい拷問を大石にかけ、伊東および龍馬の暗殺を自白させました。

しかし後日、兵部省へおくられ取り調べを受けた大石は、先の自白をひるがえし、龍馬暗殺は京都見廻組の犯行である反論したのです。

岩崎鏡川編「兵部省口書」『坂本龍馬関係文書』東京大学出版会、大正15年(1926年)

 元一橋家来大石捨二郎倅
兵部省口書
 新選組
 大石鍬次郎事
 新吉
 午三十三歳
口書
(前略)
且同年十月比、土州藩坂本龍馬、石川清之助両人を暗殺之儀、私共の所業には無之、是は見廻り組海野某、高橋某、今井信郎外壱人にて暗殺致候由、勇より慥に承知仕候。先達薩藩加納伊豆太郎に被召捕候節、私共暗殺に及び候段申立候得共、是は全く彼の薩の拷問を逃れ候為めにて、実は前申上候通に御坐候。(下略)


[現代語・意訳]

かつ同年ごろ(慶応3年11月)、土州藩坂本龍馬、石川清之助(中岡慎太郎)両人を暗殺した件は、私どもの仕業ではありません。これは「見廻組の海野某、高橋某、今井信郎ほか1人が暗殺した」と、近藤勇より確かに聞きました。先だって薩州藩の加納伊豆太郎(鷲雄)に召し捕らえられたさいに、「私どもが暗殺しました」と申しあげたのは、薩摩の拷問を逃れるためであり、実は今申しあげた通りです。

それによれば、局長・近藤は「京都見廻組の海野某、高橋某、今井信郎らが坂本龍馬を暗殺した」と話していたといいます。また、捕縛された際に新選組の犯行と自白したのは、薩摩の拷問をのがれるためでした。


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