1. 龍馬誕生
その名は龍馬!
幕末の英雄・坂本龍馬は、天保6年(1836年)11月15日、土佐国高知城下本丁筋1丁目に住む郷士坂本家の次男として誕生しました。
うまれたときから、顔には点々としたホクロがあり、背中には龍や馬のたてがみのような奇妙な産毛が生えていたことから、「龍馬」と名づけられました。
諱は「直柔」(はじめ直陰)、号は「自然堂」。変名としては「才谷梅太郎」がもっとも知られていますが、そのほかにも「西郷伊三郎」「高坂龍次郎」「大浜濤次郎」「取巻の抜六」などがあります。
現存する紋付から推定すると、龍馬の成年時の身長は約5尺7寸(約173cm)、体重はおよそ19貫(約71kg)とされ、当時としては大柄な体格でした。体格や風貌については、多くの知人の記録にも「堂々たる体軀」と記されています。

坂本龍馬(高知県立坂本龍馬記念館所蔵)
流派! 小栗流, 北辰一刀流 !!
坂本龍馬は、青年期に「小栗流」および「北辰一刀流」という2つの流派に身を置き剣術を学びました。いずれも皆伝を受けるまでに至り、かなりの腕前だったことがわかります。
龍馬が最初に学んだのは小栗流で、高知城下の剣術家・日根野弁治に師事しました。龍馬に伝授された伝書のうち、その現物が確認されているものは以下の3点です。
◆ 『小栗流和兵法事目録』
◆ 『小栗流和兵法十二箇條並二十五箇條』
◆ 『小栗流和兵法三箇條」
北辰一刀流は、龍馬が江戸に出たさいに京橋桶町にある千葉定吉の道場で修行しました。龍馬に授けられた伝わる伝書として、次のようなものがあります。
◆ 『北辰一刀流長刀兵法目録』
◆ 『北辰一刀流兵法箇条目録』(焼失)
◆ 『北辰一刀流兵法皆伝』(焼失)
ただし、『北辰一刀流兵法箇条目録』および『北辰一刀流兵法皆伝』の伝書は現存しておらず、明治43年(1910年)に作成された遺品預かり書にその名称が記されているにとどまります。
したがって、これらは龍馬が師から受けた正式な「免許皆伝」とは断定できず、儀礼的・象徴的な意味合いを持つ「相伝状」の一種とも考えられています。
刀とピストール
坂本龍馬が佩刀として用いていた刀としては、次の2振がよく知られています。
◆ 『肥前忠広』
龍馬が脱藩するさい、姉・乙女から餞別として贈られたとされる刀で、のちに岡田以蔵の手に渡ったと伝えられています。現物は確認されておらず、文献上の伝承にとどまります。
◆ 『陸奥守吉行』
龍馬が兄・権平から拝領した刀で、慶応3年(1867年)11月15日の近江屋事件当夜にも帯びていたことが確認されています。現存しており、京都国立博物館が所蔵しています。

陸奥守吉行(京都国立博物館所蔵)
このほかに現存が確認されている刀としては、「埋忠明寿」「左行秀」「備前長船勝光宗光」「相州圀秀」などがあげられます。

埋忠明寿(京都国立博物館所蔵)
龍馬が寺田屋事件のときに使用した銃は、「スミス&ウェッソン モデル2(Smith & Wesson Model 2)」というアメリカ製32口径の7連発拳銃です。
この銃は、長州藩の高杉晋作が上海滞在中に購入したもので、薩長同盟の締結に向かう龍馬に贈ったものと伝えられています。龍馬の手紙にも、「彼高杉より被送候ピストール」(『慶応2年2月6日付桂小五郎宛 龍馬書簡』)との記述があり、その由来を確認することができます。

スミス&ウェッソン モデル2(NRAより)
誕生日をめぐる諸説
坂本龍馬の誕生日は、かれが殺害された日と同じ11月15日と知られていますが、実際には次のように諸説あり確定的なものではありません。
11月15日が定説となっているのは、かれの妻お龍が、明治32年(1899年)に連載された『千里駒後日譚』のなかで、「龍馬の生まれた日ですか、天保6年の11月15日で丁度斬られた月日(慶応3年11月15日)と一緒だと聞ひて居るのですが書物には10月とあります、どちらが真だか分かりませぬ」と語り残しているからです。
- 10月15日説
- 『汗血千里駒』
龍馬は長兵衛の二子にして、天保六年己末十月十五日をもって出生せり。 - 『阪本龍馬』
而して阪本龍馬は実に天保六年乙未十月十五日をもって、この地高知城の南本町に生る。
- 『汗血千里駒』
- 11月10日説
- 『維新土佐勤王史』
頃は天保六年乙未十一月十日の暁天、高知上町本丁の宅に生まる。
- 『維新土佐勤王史』
- 11月15日説
- 『坂本龍馬』
阪本龍馬、名は直柔(のちさらに才谷梅太郎、取巻抜六などと称す)。高知城下の人なり。天保乙未六年十一月十五日の暁をもって生る。 - 『雋傑坂本龍馬』
天保六年十一月十四日夜、父八平、黄金の駒天より駈け下りて懐ろに入ると夢見、母幸子、蛟龍雲に乗じ赫々たる神火を吐き炎気胎内に入ると夢身、きぬぎぬの言葉に、夫婦互いにこの奇瑞を物語って間もなく、旭日東天に懸る黎明の頃おい、龍馬は産声高く、誕生したり。
- 『坂本龍馬』
蛟龍の夢
古来、英雄や偉人の誕生には、しばしば不思議な夢や兆しがともなったと語り伝えられてきました。坂本龍馬の場合も、その名の由来とされる伝説が、いくつかの文献に記録されています。
母・幸が出産をひかえた夜、蛟龍が神火を吐いて雲上へと駆け昇り、その炎が自分の胎内へ吸いこまれていく夢を見ました。この夢の話を聞いた父・八平は、これを瑞兆と受けとめて「龍馬」と名づけたというものです。
なお、土佐では古くから我が子の無病息災を願い、動物にちなんだ名前を与える風習がありました。龍馬のまわりにも、長姉の千鶴、姪の春猪、親戚の山本数馬、吉村虎太郎、望月亀弥太、乾猪之助(のちの板垣退助)など、動物の名を含む人が少なくありません。
坂崎紫瀾『汗血千里駒』春陽堂、明治18年(1885年)
龍馬の父は名を長兵衛と呼び、母はお幸と云う。龍馬は長兵衛の二子にして、天保六年己未十月十五日をもって出生せり。往昔より英雄豪傑の世に降誕するや、あるいは種々の奇瑞を示せし例は物の文にも多く載するところなるが、今この龍馬もまた生まれながらにしてその背に最と怪しき産毛生え、あたかも獣類のごとくなりしゆえ、龍馬は成長の後にても人に肌身を見する事を太く愧じ、その浴湯する時だにも人を近づくる事なかりしとぞ。あるいは伝うところによれば、母お幸が懐胎の間に生平愛する雄猫を抱きて、常にその腹の上に臥さしめたる事あれば、自然その胎子に感伝して、かく痕を留めたりとも云い、また一説には出生の前夜、母の夢に蛟龍昇天してその口中より吹き出す炎、胎内に入しと見たり。よって龍馬と名号しとも云えり。実に爾る理のあるやなきやは、姑く世の博識家の判断を仰ぐ事として、ただ伝聞のままを記し置きぬ。
弘松宣枝『阪本龍馬』民友社、明治29年(1896年)
しかして阪本龍馬は実に天保六年乙未十月十五日をもって、この地高知城の南本町に生る。
(中略)
奇なるか。この児まさに生れんとするや、一夕、その父黄金の駒、天より下れるを夢み、母は黄金の龍、地より上れるを夢み、寤めてしかして分晩す。故に龍馬と名づけし也と。彼また生まれながらにして、背に生毛を生じ、あたかも獣類のごとく、成長の後といえども人に肌を見せず、浴場にも人を近づけず、暑中汗滴るも常に襯衣を着けり。伝え謂う、彼が母懐妊中、愛する黒猫を腹の上に臥さしめたるより、自然胎子に感伝して、かく痕を留めたるものなりと、真否は知らず。
瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)
頃は天保六年乙未十一月十日の暁天、高知上町本丁の宅に生まる。その前夜、母幸子に蛟龍赫々神火を吐きて、炎気胎に透ると感ずるの夢象あり。驚き寤めて分娩したるをもって、父八平これを龍馬と名づく。龍馬生れて面上に数点の黒子あり。その長ずるや、背に鬖々たる黒毛を生ぜり。龍馬深くこれを秘して、暑中いまだかつて襯衣を脱せず、その浴するや容易に人を近づかしめざりしと云う。
千頭清臣『坂本龍馬』博文館、大正3年(1914年)
坂本龍馬、名は直柔(のちさらに才谷梅太郎、取巻助六などと称す)。高知城下の人なり。天保乙末六年(紀元二四九五年、西歴一八二五年)十一月十五日の暁をもって生まる。父は八平直足、母は幸子。一兄三姉あり。
(中略)
龍馬は生まれて顔に黒子点々、背に一塊の怪毛あり。時人ために種々の浮説を作る。左はその主なるものなり。
(一)母幸子、雲龍奔馬の胎内に入るを夢み、覚めてのち龍馬を生む。
(二)母幸子、常に猫を愛し、懐胎中もこれを抱きしが、獣気自ら胎児に感染して、龍馬にこの怪毛を生ぜしむ。
(三)母の奇夢、子の怪毛、父はこれを易者に相せしめけるに、易者曰く、蛟龍昇天して火焔母胎に入る。奇瑞なり。大器にして晩成し、必ず家名を揚げんと。父すなわちこの児に龍馬の名を与えたり。
伝説紛々、もとより信ずべからず。
[現代語・意訳]
龍馬は生まれたとき、顔にホクロが点々とあり、背中にひとかたまりの怪しい毛があった。このことから、当時の人々は様々な逸話をつくった。以下は、その代表的なものである。
(一)母幸子は、雲のなかを駆ける龍と馬が胎内に入る夢を見て、目が覚めたのちに龍馬をうんだという。
(二)母幸子は常日頃から猫を愛しており、妊娠中もこれを抱いていたので、獣の精気が胎児に感染して、龍馬の背に怪しい産毛がはえたという。
(三)母の奇妙な夢と、子の怪毛を見て、父がこれを易者に占わせたところ、易者はこう言った。「蛟龍が天に昇り、火炎が母の胎内に入る。奇瑞(めでたいことの前兆)なり。大器にして晩成し、必ず家名をあげるであろう」と。そのため、父はこの子に龍馬の名をあたえた。
伝説紛々、もとより信じるべきものではない。
坂本中岡銅像建設会編『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会、大正15年(1926年)
天保六年十一月十四日夜、父八平、黄金の駒天より駈け下りて懐ろに入ると夢見、母幸子、蛟龍雲に乗じ赫々たる神火を吐き炎気胎内に入ると夢身、きぬぎぬの言葉に、夫婦互いにこの奇瑞を物語って間もなく、旭日東天に懸る黎明の頃おい、龍馬は産声高く、誕生したり。
龍馬の名の由て来る所以は、この奇瑞によるものである。
龍馬生まれながらに、面上数点の黒子あり、稍々長ずるや、背に髯々たる黒毛を生じ、あたかも獣類のごとくなるを、さすがの龍馬も深くこれを恥じ、成長ののちといえども肌を人に見せず、その浴するや容易に人を近附けず、暑中三伏の候汗滴るもいまだかつて襯衣を脱せし事なし。躯幹長大、剣撃に巧みだった。
華麗なる郷士
坂本龍馬の生家・坂本家は、高知城下で有数の豪商として知られた才谷屋の分家であり、土佐藩の郷士身分に属していました。
郷士とは、上士の下に位置づけられた低い身分の武士で、町人と同様に城下の外れに居住していましたが、坂本家はその中でも抜きん出て裕福でした。藩からは知行161石8斗4升と、3人扶持切米5石(10石4斗)の俸禄を受けており、その禄高は郷士の枠を超えて上士にも匹敵するものでした。
加えて、坂本家は分家時に本家の才谷屋から多額の財産を相続しています。『坂本龍馬関係文書 一』(岩崎英重編)に収録された「財産分配譲渡状」によると、初代・坂本八平直海(兼助)は、「銀米竝に質物貸諸売物」のうち約3割強を譲り受けており、これは現在の貨幣価値に換算すると数億円に達すると推定されています。
坂本家の家伝によると、姓の「坂本」は、先祖が近江国志賀郡坂本(現在の滋賀県大津市坂本)に興ったことにちなむとされています。家紋は「組み合わせ角に桔梗紋」が用いられており、これは明智光秀の家臣・明智左馬之助の末裔であるという伝承に基づくものとされます。

組み合い角に桔梗