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10. 剣客・龍馬

北辰一刀流長刀兵法目録

安政3年(1856年)夏、坂本龍馬は、ふたたび桶町千葉道場にかよい、さらに北辰一刀流の本家・玄武館の稽古にも参加し、剣術修行にはげみました。

龍馬が玄武館にも籍をおいていたことは、門人だった清河八郎が、安政4、5年ごろに在籍していた309名を記録した『玄武館出席大概』のなかに確認することができます。

当初、龍馬の修行期間は、安政3年(1856年)8月から約1年間という期限でしたが、途中でさらに1年間の延長がみとめられています。

    1. 参考『福岡家御用日記』
      「御預郷士坂本権平弟龍馬儀、先年以来御暇継ぎをもって武芸修行のため江戸表へ罷りあり候」

そして安政5年(1858年)1月、24歳のときに、千葉定吉から『北辰一刀流長刀兵法目録』をあたえられました。

これは唯一現存している龍馬の北辰一刀流の伝書ですが、剣術ではなく薙刀の目録であることがわかっています。

目録の連名には、千葉周作成政・定吉政道・重太郎一胤につづいて、佐那・里幾・幾久と3人の娘がならんでいます。伝書に女性の名前がくわえられることはめずらしいことから、龍馬と佐那の婚約を記念しておくられたものとも伝わります。

北辰一刀流長刀兵法目録
北辰一刀流長刀兵法目録(創造広場アクトランド所蔵)

達人か、凡人か

後世の証言から、龍馬は“剣の達人”だったといわれています。

一方、小栗流の皆伝書はのこされているものの、北辰一刀流では薙刀の目録しか見つかっていないため、その実力を疑問視する意見もありました。

しかし、高知県立坂本龍馬記念館の調査によって、龍馬が北辰一刀流の皆伝書を伝授されていたことをしめす文書が確認されました。

同館によると、この史料は、北海道の坂本家から寄贈をうけた関連史料のなかからみつかり、7代当主・坂本弥太郎が、明治43年(1910年)8月30日付で、龍馬のおいの妻に書いた遺品預かり書です。

北海道浦臼町でひらかれた「坂本龍馬遺品展」出品するため、秘伝巻物の「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀兵法皆伝」を借りたことが記載されていました。

これは龍馬が、北辰一刀流の免許皆伝と目録、さらに長刀の皆伝を取得していたことをしめしています。

しかし、残念なことに皆伝書は、昭和4年(1929年)に東京でひらかれた「土佐勤王志士遺墨展覧会」の出品目録控に「附記、千葉周作ヨリ受ケタル皆傳目録ハ全部焼失セリ 於釧路市」とあり、大正2年におきた火災でうしなわれていました。

幻の剣術試合

土佐藩邸御前試合

安政4年(1857年)10月、土佐藩主・山内豊信(容堂)は、江戸鍛冶橋の土佐藩邸で、諸流派による剣術試合を開催しました。

審判員は神道無念流の斎藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵(代人・桃井左右八郎)、北辰一刀流の千葉栄次郎、島村伊左尾、石山権兵衛の5名。

この剣術試合には長州の桂小五郎、肥後の上田馬之助、千葉周作門下の海保帆平らなど当代一流の剣客たちが参加していました。

龍馬も桶町千葉道場の代表として出場しており、島田駒之助なる人物と対戦して、みごと勝利をおさめています。

この剣術試合の勝敗一覧表は、『海援隊始末記』(平尾道雄著)に記載されていますが、主催した山内家の公式記録や、ことなる史料に一切記述がないことから、後世の偽作であることが判明しています。

士学館撃剣会

安政5年(1858年)10月、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館にて、千葉家をまねいた撃剣会がひらかれました。

このとき、最強との呼び声が高い長州の木戸準一(桂小五郎)は、数番を制してむかうところ敵なしでしたが、諸氏のすすめにより、龍馬と立ち会うことになりました。

10本の勝負は、互いにゆずらず五分と五分。

最後の11本目、木戸が得意の上段から打ちこんできところ、龍馬が諸手突きを決めて勝利しました。このとき見物人の大歓声で、道場は破れんばかりだったといいます。

この撃剣会の様子は、武市瑞山が故郷にあてた手紙に書かれていますが、つぎのことから偽書であることがわかっています。

この当時、木戸準一こと桂小五郎は、「木戸」を名のっていません。また、武市・龍馬はすでに江戸をはなれ、土佐へ帰郷していました。

修行満期

安政5年(1858年)8月、修行期間をむかえた龍馬は、帰国の途につきます。このころに書かれたと推定される手紙がのこされており、かれの暮らしぶりを伝えています。

『(推定)安政5年7月頃坂本乙女宛 龍馬書簡』

(冒頭)
此状もつて行者ニ、せんの大廻の荷のやり所が
しれん言ハれんぞよ。
此勇のに物ぢやあきに、状が龍馬から来た
けんどまちがつたと
御いゝ可被下候。
(表面)
先便差出し申候しよふ婦は皆々
あり付申候よし、夫々に物も
付申候よし、其荷は赤岡村元作と
申候ものゝにて候。此状もちて行くもの
ニて御座候。めしをたいても
らい候者ニて候。誠ニよき者故
よろしく御取成可被成下候。大いそ
ぎにて候故、御すいりよふ/\。
此節は○がなく候故いけ
なく相成申候。私しかへりは
今月の末より来初めにて
候得共、御国へかへり候はひまど
り可申と奉存候。又、明日は
千葉へ、常州より無念流の試合斗り
(裏面)
申候。今夜竹刀小手のつく
らん故、いそがしく
御状くは敷事
かけ不申候。
 かしこ/\/\
 坂本龍


[現代語・意訳]

(冒頭)
この手紙を持っていく者に「先の大廻船で送られてきた荷物の行き先は知らない」と言ってはいけません。この男の荷物です。手紙が龍馬から来たので、坂本家あての荷物と間違えたと言ってください。
(表面)
先の便で江戸から送りました菖蒲はみな根がついたと聞き喜んでおります。また、それぞれの荷物も到着したと聞きました。
その荷物の一部は赤岡村の元作という者の荷物です。この手紙を持っていく本人です。元作は江戸で私の飯を炊いてもらっていた者で、まことに良い人なのでよろしくお取り成しください。大急ぎでこの手紙を書きましたので、ご推量ください。
最近は金がなくなりましたので、この船便では帰れなくなりました。私の帰国については、今月末から来月初めごろの出立を予定しています。ただし、土佐に到着するのは時間がかかると思います。
また、明日は千葉道場で常陸国からきた神道無念流の剣士との試合があります。
(裏面)
そのため今夜は竹刀や籠手の修繕がありいそがしく、詳しいことを書く時間がありません。
かしこかしこ
坂本龍

出立にあたり、旅費のすべてを師匠に献じた龍馬は、東海道沿いの剣術道場に立ちよっては試合をおこない、謝礼を得てはそれを宿賃にあてるという気ままな旅をつづけていたといいます。(千頭清臣『坂本龍馬』)

そして9月3日、高知に到着し、無事に実家へと帰りつきました。(参考『福岡家御用日記』)


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