11. 誠実可也ノ人物
水戸の遊説使
安政5年(1858年)11月19日、江戸から帰国した坂本龍馬のもとに、加藤於莵之助・菊地清兵衛なるものから手紙がとどきます。
加藤の本名は住谷寅之助、菊池は大胡聿蔵。かれらは水戸藩の尊王攘夷派で、孝明天皇が発した戊午の密勅の内容をつたえるため、西南諸藩を遊説している途中にありました。(「勅諚御回達之儀ニ付天下之諸侯応ずるや否、探索之為」『吉田健蔵日記』)
「戊午の密勅」とは、この年の6月、幕府が朝廷の勅許(天皇のゆるし)を得ないまま日米修好通商条約をむすんだことに対し、孝明天皇が水戸藩に下賜した勅書のことです。
その内容は、幕府に条約調印への呵責と説明をもとめ、公武合体の推進と攘夷実行の幕政改革をのぞみ、これを諸藩に知らせるよう命じたものでした。
密勅をうけた水戸藩では、勅書を廻達すべきとする尊攘派と、幕府に返納すべきとする保守派に意見がわかれます。
そこで尊攘派は、諸藩に決起をうながすため住谷らを西国に派遣し、一行は11月17日に土佐の立川関に到着しました。
だが、かれらは入国手形を持たなかったため通行できず、付近に滞在して、入国のとりはからいを求める手紙を龍馬におくったのでした。
住谷と龍馬に面識はなかったようですが、幕臣・山岡鉄舟と交流のあった人物を列記した名簿『尊攘遺墨』のなかに名前があり、ふたりの接点をみつけることができます。
尊攘派水戸藩士。安政5年(1858年)、水戸藩に下賜された密勅を諸藩へ廻達するため大胡聿蔵らとともに西国を遊説する。このとき土佐の立川関にて坂本龍馬と面談している。安政の大獄によって蟄居処分を受けるも、老中・安藤信正を襲撃した坂下門外の変を周旋した。公武合体を容認したことから勤王派から敵視され、慶応3年(1867年)に土佐藩の山本旗郎らによって暗殺された。
田舎漢
龍馬は拝顔のうえでご相談と返書をしたため、11月23日に、川久保為介と甲藤馬太郎を連れて住谷のもとを訪問しました。
面談した住谷は、龍馬を「誠実かなりの人物」と評価しながらも、「しかし撃剣家。世情にうとく何も知らない」と、政治情勢をまったく知らないことに失望をみせています。
また、土佐の内情を聞かれた龍馬は、藩主・山内豊信(容堂)の隠居問題によって内紛がおきていることを伝えましたが、住谷を満足させるものではありませんでした。
『住谷信順廻国日記』東京大学史料編纂所蔵
◯安政五年十一月十八日、廿三日
十一月十八日以飛脚奥宮惣次竝坂本龍馬へ書状遣す。
龍馬は近々立川へ尋来候様返書来る、奥宮御城下より本と云十五里計にあると云、返書不来候事。
同廿三日龍馬(二五歳)尋来る。川久保為介(廿一歳)甲藤馬太郎(同)。龍馬誠実可也の人物併撃剣家。事情迂闊何も不知とぞ。
一、坂本話
小南忠左(五郎右カ)衛門 側用人江戸。
(仕置役今江戸)吉田元吉 当君公代蟄居より引上げ用たり。
大須賀五郎右衛門 先般内用被申付京師へ行候事あるとぞ。
一、当時君公病気申立引込、行々隠居の下知、さすれば先隠居様の子跡式の筈江国とも役人大替りたりと云。
一、隠居様へ万事内わ家中二つに分れ、逐々景気見居り決断の出来候者一人も無之とぞ。目付等へもいろ/\談合是非入国の事周旋の処出来不申事。
一、龍馬帰り是非大須賀尋来候様周旋致呉候筈の所沙汰なし。廿五日龍馬立川出立帰る。三日迄左右待候処何等沙汰なし。予は見切朔日出立。菊池氏は四日出立す。
一、外両人は国家の事一切不知。龍馬迚も役人名前更に不知、空敷日を費し遺憾々々。
一、(二百六十五里)土佐(側用人傑出)小南忠左衛門(当時台場受取に付大坂にあると云)高橋兄弟知識◯奥宮猪惣次(豊田知人会沢へ来ることあり)○(下略)
そこで住谷は、龍馬に参政・大須賀五郎右衛門への周旋を依頼します。しかし、このころの龍馬にそのような力があるはずもなく、住谷らは土佐入国が不可能とわかり、失意のうちに立川関をあとにしました。
のちに住谷は、「老中の名前さえ知らぬ田舎漢を遥る/\と尋ねいきたるは、愚の至りなりし」(瑞山会編『維新土佐勤王史』)と嘆いたといいます。もっとも、この田舎者が、数年後に天下を左右する大策士になるとは、見ぬくことができなかったようです。