12. 剣客・龍馬
龍馬修行中
安政3年(1856年)夏、坂本龍馬はふたたび桶町千葉道場に通い、剣術修行に打ち込みました。今回はその力量が認められ、北辰一刀流の本家道場である玄武館への出稽古も許されています。玄武館への紹介は、師である千葉定吉の長男・重太郎によるものと伝えられています。
龍馬が玄武館に籍をおいていたことは、門弟の一人である清河八郎が記録した『玄武館出席大概』により確認できます。この帳面には、安政4年から5年ごろに在籍していた309名の名前が記されており、そのなかに龍馬の名も見えます。

玄武館出席大概(清河八郎記念館所蔵)
修行期間は、当初は安政3年(1856年)8月から約1年間とされていましたが、その後さらに1年間の延長が認められました。そのため期間が満了したあとも、龍馬は江戸にとどまり、剣術の鍛錬を続けています。
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- 参考『福岡家御用日記』
「御預郷士坂本権平弟龍馬儀、先年以来御暇継ぎをもって武芸修行のため江戸表へ罷りあり候」
- 参考『福岡家御用日記』
長刀兵法目録
このような熱心な修行の積みかさねが実を結び、安政5年(1858年)1月、24歳となった坂本龍馬は、千葉定吉より『北辰一刀流長刀兵法目録』の免許を授けられました。
これは現存が確認されているかぎり、龍馬が北辰一刀流において授与された唯一の免状です。ただし、その内容は剣術ではなく、長刀(ナギナタ)に関するものであることがわかっています。
目録の連名には、千葉周作成政、定吉政道、重太郎一胤に続いて、周作の三女である佐那、里幾、幾久の名が並んでいます。伝書に女性の名前が記されることはきわめて異例であり、そのため龍馬と佐那の婚約を記念したものではないかとする説もあります。ただし、これを示す同時代史料は確認されておらず、伝承の域を出ていません。

北辰一刀流長刀兵法目録(創造広場アクトランド所蔵)
達人か、凡人か
坂本龍馬といえば、しばしば「剣の達人」としての一面が語られてきました。若き日に江戸へ遊学し、北辰一刀流の桶町千葉道場に入門。千葉定吉のもとで鍛錬を重ね、やがて塾頭をつとめたという逸話も、広く知られています。
しかしその一方で、龍馬の剣術の腕前については、かねてから懐疑的な見方もありました。とくに指摘されてきたのは、北辰一刀流に関する剣術の免状が確認されていないことです。現存しているのは長刀の目録のみであり、剣術に関する免状は見つかっていませんでした。
そのため、龍馬の剣術は、後年の伝記や講談が描くように「達人」の域にあったのか、それとも江戸の道場では目立った実績を残すことができなかった「いち修業者」にすぎなかったのか。その評価はふたつに分かれ、今なお論争が続いています。
そうしたなか、2015年に高知県立坂本龍馬記念館が、注目すべき史料を確認しました。北海道に在住する坂本家子孫から寄贈された資料のなかに、「北辰一刀流兵法皆伝」と記された文書が含まれていたのです。
この文書は、明治43年(1910年)8月30日付で、坂本家7代当主の坂本弥太郎が、龍馬の甥の妻にあてて作成した遺品預かり書です。北海道浦臼町で開催された「坂本龍馬遺品展」への出品にさいし、同家から次の3点の秘伝巻物を借用したことを記したものでした。
◆ 北辰一刀流兵法皆伝
◆ 北辰一刀流兵法箇条目録
◆ 北辰一刀流長刀兵法皆伝
この預かり書により、龍馬が北辰一刀流の剣術においても、皆伝に相当する伝書を授与されていた可能性が示唆されました。ただし、これは伝書そのものではなく、その存在を書きとどめた記録にすぎません。そのため、この史料をもって、龍馬の皆伝取得を断定することはできません。
それでも、これまで「免状が現存しない以上、授与の事実も確認できない」とされてきた状況のなかでは、皆伝書の存在をうかがわせる数少ない史料であることは確かです。
しかし残念ながら、こうした免状類はすでに現存していません。昭和4年に東京で開催された「土佐勤王志士遺墨展覧会」の出品目録の控えには、「附記、千葉周作ヨリ受ケタル皆傳目録ハ全部焼失セリ(於釧路市)」と明記されており、北辰一刀流の皆伝書類は、大正2年に釧路市で発生した火災によって焼失したとみられます。
なお、龍馬が修業したもうひとつの流派・小栗流については、現在も目録および皆伝書が現存しており、京都国立博物館で確認することができます。これは、龍馬が小栗流において相応の修練を積み、その力量を正式に認められていたことを示す直接的な史料です。
坂本龍馬の実像には、後年の語りのなかで美化された部分も少なくありません。しかし少なくとも、かれが剣術修行に真剣に取り組み、一流派において免許を授与されるだけの力量を備えていたことは確かなことです。