12. 土佐沸騰
井口村刃傷事件(永福寺門前事件)
土佐藩では、山内家出身の上士と、長宗我部家出身の下士との間に、きびしい階級差別が存在していました。文久元年(1861年)3月4日、土佐にくすぶっていた両者の対立をさらに深める刃傷事件が発生しました。
その夜、桃の節句の酒宴をおえた上士・山田広衛は、茶道方の益永繁斎と連れたって歩いている途中、井口村の永福寺門あたりで、下士・中平忠次郎と出会い頭にぶつかりました。
中平は「これは粗相」と詫びを入れて立ち去ろうとしましたが、相手を軽格とみた山田はゆるさず、「無礼者め」と声を荒らげて罵倒しました。
やがて口論は次第にはげしさを増し、ついには両者は刀を抜いて斬り合いとなりました。山田は江戸で千葉周作の玄武館でまなび、「土佐の鬼山田」といわれたほどの腕利きです。たちまち中平を斬り捨ててしまいました。
このとき中平と一緒にいた宇賀喜久馬はその場から逃げ出して、ことの次第を中平の兄・池田寅之進に知らせました。押っ取り刀でかけつけた池田は、小川で水を飲んでいた山田を背後より斬りつけて殺害。さらに、ちかくの家から提灯を借りてきた松井も討ち果たしました。
その後、弟の遺体を戸板にのせて運ぼうとしたところ、現場にあらわれた上士・諏訪助左衛門と長屋孫四郎が、「藩法により、死体をみだりに動かすことは禁じられている」として、その処置を咎めました。
そのため池田は、弟の亡骸を寺の門前へもどし、あらためて、山田と益永は山田家に、中平は池田家へと引き取られることになりました。
翌朝、この事件は人びとの知るところとなり、山田家には上士が、池田家には下士が続々とあつまりました。両陣営はたがいに対決する気炎をあげ、一触即発の緊張状態となりました。
瑞山会編『維新土佐勤王史』富山房、大正1年(1912年)
偶ま井口村刃傷事件起り、下士池田寅之助なる者、実弟の殺されし其の場に、当の敵なる上士の剣客山田広衛を倒し、従容として屠腹したるが、坂本等一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり
益荒男の魂
上士側は、山田を斬った池田の身柄を引きわたすようもとめましたが、下士側は「非は山田にある」として拒絶。両者の間に積もっていた怒りは爆発寸前に達し、全面対決へと発展しかねない緊迫した局面をむかえていました。
そこで老功ある者が、「池田はすでに弟の仇を討ち、本望を遂げたのだから命を惜しむべきではない。かといって池田をそのまま山田側に引き渡すわけにもいかない。ここは潔く自害することで、武士としての意地を貫くほかない」と提案しました。
この意見が受け入れられ、最終的に池田と宇賀の両名が切腹することで、事態の収拾がはかられることになりました。(佐佐木高行『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』)
このとき、龍馬も池田のもとにかけつけていました。切腹したかれの血潮に刀の下緒をひたすと、「みんな見ろ。これが益荒男の魂がこめられた形見だ。池田はわれら軽格の士気をふるい立たせるため、自ら犠牲となったのだ。決して卑怯なふるまいをするな。尽くせよ、尽くせ国のため」と言い放ち、同志との結束を誓ったといいます。
坂崎紫瀾『汗血千里駒』春陽堂、明治18年(1885年)
此時池田の宅へ馳つけし有志の一人に坂本龍馬と云う人あり。始め池田兄弟と無二の友垣なりたりしも、央頃互いに論しの適ねば其交際を断ちたる折から該騒動を聞きしより、他に見るべき時ならずと諸有志と供に池田方に来たり。池田が割腹論を大に賛成し、寔に武士は斯こそありたけれと、更に之を禁ず。頓て寅之進が割腹の血汐へ己が刀の下緒(白糸なりしと)を浸し、韓血となりしを手に把りて「各々見られよ、之れぞ世にも猛男が魂魄残りし最期の記念。池田は我国軽格の元気を振興させんが為め身を犠牲に供したり。努々姑息に流るゝなかれ、蓋せよ蓋せ国の為」と押載きて元の如く刀に結つけ、家内の者に会釈をなして悠然と立去し。其挙動には一同感じて竭まざりし。是ぞ汗血千里駒が驥足を舒る開結なり。