RYOMADNA

13. 井伊の赤鬼

将軍継嗣と違勅調印

安政5年(1858年)9月、大老・井伊直弼は、将軍継嗣で対立した一橋派および条約調印を批判をした公卿・諸藩士など、自身の反対派に対する大弾圧を断行しました。いわゆる「安政の大獄」です。

井伊直弼
井伊直弼
井伊直弼

幕末大老、近江彦根藩主。もとは部屋住みだったが、兄・直亮が死去したため彦根藩主となる。安政5年(1858年)に大老に就任すると、継嗣問題では一橋慶喜をおさえて徳川慶福(のち家茂)を第14代将軍とさだめ、勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印するなど強権をふるった。これに反対した一橋派大名や尊王攘夷派を一掃するため安政の大獄を断行。安政7年(1860年)3月3日、水戸・薩摩浪士の襲撃を受け桜田門外にて暗殺された。

黒船来航後の幕府内部では、第13代将軍・徳川家定の後継をめぐり、徳川慶福(徳川家茂)を擁立する南紀派と、一橋慶喜(徳川慶喜)を擁立する一橋派の対立がおきていました。

南紀派は、彦根藩主の井伊直弼を筆頭に譜代大名や大奥が支持し、血統を重視した幕府独裁の強化をはかろうとしていました。

これに対し一橋派は、慶喜の実父である前水戸藩主の徳川斉昭を中心に親藩・外様大名からなり、英明・年長・人望の3つをそなえた君主のもとで雄藩連合による政権運営をめざしていました。

両派の争いは南紀派が勝利し、安政5年(1858年)4月、将軍・家定は井伊直弼を大老に任じます。大老は、非常時にもうけられた最高職で、幕政を取り仕切る老中より上位におかれていました。

井伊は徳川慶福を将軍の後継者に決定。さらにアメリカから調印をせまられていた日米修好通商条約を、孝明天皇の勅許を得ないままで締結して開国にふみきりました。

この違勅調印に対して、一橋派の徳川斉昭・慶篤親子(水戸)、徳川慶恕(尾張)、松平慶永(越前)らが一斉に登城して、井伊を責めたてます。しかし、井伊はたくみにこの追及をかわすと、逆にかれらの不時登城をとがめ、隠居・謹慎などのきびしい処分を下しました。

こうした井伊の独裁強権に孝明天皇は激怒し、譲位の意思を示したほどでした。そこで朝廷は幕府をいさめる趣旨の勅諚を8月8日に水戸藩へ下賜し、諸藩への廻達を命じました。この勅諚は、正式な手続きを経ないままの下賜であったため「戊午の密勅」とよばれますが、数日後に同様の勅諚が幕府に下されています。

勅諚では、まず勅許なしで通商条約に調印したことを批判しています。さらに不時登城による水戸・尾張藩主への処分にもふれ、内憂外患のなか、大老、老中、御三家、御三卿、御家門、さらに譜代・外様の区別なく一同で評議して公武合体をはかり、徳川家を助けて外国の侮りを受けないようにせよといった内容が書かれていました。

安政の大獄

天皇が徳川家を無視して直接大名に勅諚を下賜する事態は、幕府開闢以来前代未聞の出来事でした。幕府の支配体制を破壊しようとする動きに、井伊は一橋派や尊王攘夷派勢力の一掃を決意し、徹底的な弾圧にのりだしました。

諸侯で処罰されたものは、前水戸藩主の徳川斉昭が永蟄居、藩主の慶篤が差控、一橋家当主の一橋慶喜が隠居・謹慎、宇和島藩主の伊達宗城が隠居・謹慎、土佐藩主の山内豊信が謹慎に処せられました。

幕臣では、前老中の堀田正睦、松平忠固が隠居、老中の間部詮勝が罷免されたほか、勘定奉行の川路聖謨、大目付の土岐頼旨、作事奉行の岩瀬忠震、軍艦奉行の永井尚志らが免職・左遷されました。

密勅をうけた水戸藩への処分は苛酷で、藩主親子への処罰にくわえて、家老の安島帯刀が切腹、京都留守居役の鵜飼吉左衛門父子、奥右筆頭取の茅根伊予之介が死罪という処分が下されました。

処罰は公家や皇族にまでおよび、左大臣の近衛忠煕、右大臣の鷹司輔煕が辞官落飾、青蓮院宮朝彦親王、前関白の鷹司政通、前内大臣の三条実万が隠居落飾に処せられ、一条忠香、二条斉敬、近衛忠房、久我建通、中山忠能などが謹慎処分を受けています。

そのほかに、元小浜藩士で尊攘激派の中心的存在だった梅田雲浜が捕らえられ獄死、松平慶永の右腕として活躍した福井藩士の橋本左内、『日本外史』を著した儒学者・頼山陽三男の頼三樹三郎、「松下村塾」で多くの志士をそだてた長州藩士の吉田松陰らが斬刑となり、連座したものは100余名をこえたといわれます。

桜田門外ノ変

大老・井伊は、反対派を徹底に排除することで幕府の権威を強化しようとしましたが、この大弾圧に対する反動も大きいものでした。

奸物井伊直弼を暗殺しようという計画が、水戸藩尊攘派と薩摩藩過激派の間で進められ、安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩浪士ら計18名が彦根藩の行列を襲撃し、井伊を殺害したのです。(桜田門外の変)

桜田門外ノ変
桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図

白昼堂々と幕府の最高権力者が殺害されたというこの事件は、幕府の権威を大きく失墜させました。また、下級武士たちのなかから幕府に対する“恐れ”を消しさり、これ以降尊王攘夷運動が激化し、「天誅」という名の暗殺の嵐が吹き荒れていきます。

この知らせが土佐に伝わったとき、快挙と喜ぶものがいれば、国法をやぶる暴挙だと非難するものもあり、その是非をめぐって議論がかわされました。

しかし龍馬は「諸君、なにをそんなに興奮することがある。彼らは臣下としてやるべきことをやっただけである。俺もまた他日ことにあたる時は、このような働きをするつもりだ」と語り、郷士仲間はその大志を知ったといいます。

瑞山会編『維新土佐勤王史』富山房、大正1年(1912年)

而して坂本龍馬後れ至るや、其の水戸人と交りあるを以て、事の顛末を質すに、龍馬略ぼ知れる所を語り、惣ち大言して曰く、「諸君何ぞ徒らに憤慨するや、是れ臣下の分を尽せるのみ。我輩他日事に当る亦此の如きを期せん」と。池(内蔵太)、河野(万寿弥)等始て龍馬の大志を抱くを知れりと云う。


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