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13. 幻の剣術会

土佐藩邸御前試合

安政4年(1857年)10月、江戸・鍛冶橋にある土佐藩上屋敷において、土佐藩主・山内豊信(容堂)の主催により、諸流派の剣士を集めた御前試合が催されました。

審判役をつとめたのは、神道無念流の斎藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵(代人・桃井左右八郎)、北辰一刀流の千葉栄次郎、そして島村伊左尾、石山権兵衛の5名です。いずれも流派の指導的な立場にあった人物で、当時すでに名を知られた存在でした。

試合には、長州藩の桂小五郎、肥後藩の上田馬之助、千葉周作門下の海保帆平ら、諸藩から選抜された腕利きの剣士たちが出場しており、坂本龍馬も桶町千葉道場の一員として名を連ねています。

龍馬の対戦相手は、神道無念流の使い手・島田駒之助。三本勝負でのぞんだこの一戦は、龍馬が見事に勝利をおさめたと伝えられています。この快挙により、若き龍馬はまわりから一目置かれる存在となりました—。

もっとも、この御前試合ですが、事実として確認できるものではありません。御前試合の勝敗一覧を記した史料として知られるのは、昭和期に刊行された平尾道雄『海援隊始末記』のみです。

山内家の公的記録をはじめ、同時代史料にはこの試合の痕跡が確認できず、出場したとされる剣士たちの側にも、試合に関する証言や記録は残されていません。

以上の点から、この「御前試合」は、龍馬の実歴を伝えるものではなく、後年に形成された「剣客・龍馬」像を反映したニセモノと位置づけられています。

士学館撃剣会

安政5年(1858年)10月、江戸・蜊河岸にある桃井春蔵の道場「士学館」にて撃剣会が開催され、千葉家をはじめとする諸流の剣士が一堂に会しました。

なかでもひときわ注目を集めたのは、最強とうたわれた長州藩の木戸準一(桂小五郎)です。すでに数番を制しており、並みいる剣士を寄せつけぬその強さは、居合わせた人々のあいだでも評判となっていました。

このとき周囲のすすめもあり、坂本龍馬が立ち会うことになりました。龍馬はこれまでにない気迫で勝負にのぞみ、10本の勝負はたがいに一歩も譲らず、試合はついに11本目へともつれ込みます。

木戸が得意の上段から一気に打ち込む。その瞬間、龍馬はわずかに先んじて踏み込み、渾身の諸手突きで迎え撃ちました。その突きは木戸ののど輪をとらえ、面をはね上げたといいます。

一瞬の静寂ののち、見物人たちのどよめきが道場を包み、大きな鬨の声が轟きました。その熱気は、まさに建物が破れんばかりであったと伝えられています。

この撃剣会の様子は、武市半平太が土佐の知人にあてたとされる書簡にも見えており、そこには、龍馬の勝利によって土佐側の面目が保たれたことへの安堵と喜びが、つぎのように記されています。

「もし坂本が敗れておれば、次は私の番となるところでした。恥をさらさずに済んだのは、この上ない幸運でございました。あまりに嬉しく、つたないながらも当日の様子を絵に描きましたので、ご笑覧いただければと存じます」

龍馬vs小五郎
坂本龍馬 vs 桂小五郎

しかしながら、この武市書簡には史料的に重大な矛盾が含まれており、現在では後世の創作、いわゆる偽書とみなされています。

第1に、安政5年(1858年)当時、桂小五郎は「木戸」の姓を用いておらず、書簡中の呼称は時代的に整合しません。第2に、撃剣会の開催日とされる時期には、龍馬はすでに土佐へ帰着しており、武市半平太もまた江戸を離れていたため、試合への立ち会いは事実上不可能です。

無銭道中剣試合

安政5年(1858年)8月、修行期間を終えた坂本龍馬は、江戸を離れて土佐への帰路につきました。その折に書かれたとみられる手紙が残されており、当時の旅の様子や暮らしぶりを伝えています。

『(推定)安政5年7月頃坂本乙女宛 龍馬書簡』

(冒頭)
此状もつて行者ニ、せんの大廻の荷のやり所が
しれん言ハれんぞよ。
此勇のに物ぢやあきに、状が龍馬から来た
けんどまちがつたと
御いゝ可被下候。
(表面)
先便差出し申候しよふ婦は皆々
あり付申候よし、夫々に物も
付申候よし、其荷は赤岡村元作と
申候ものゝにて候。此状もちて行くもの
ニて御座候。めしをたいても
らい候者ニて候。誠ニよき者故
よろしく御取成可被成下候。大いそ
ぎにて候故、御すいりよふ/\。
此節は○がなく候故いけ
なく相成申候。私しかへりは
今月の末より来初めにて
候得共、御国へかへり候はひまど
り可申と奉存候。又、明日は
千葉へ、常州より無念流の試合斗り
(裏面)
申候。今夜竹刀小手のつく
らん故、いそがしく
御状くは敷事
かけ不申候。
 かしこ/\/\
 坂本龍


[現代語・意訳]

(冒頭)
この手紙を持っていく者に「先の大廻船で送られてきた荷物の行き先は知らない」と言ってはいけません。この男の荷物です。手紙が龍馬から来たので、坂本家あての荷物と間違えたと言ってください。
(表面)
先の便で江戸から送りました菖蒲はみな根がついたと聞き喜んでおります。また、それぞれの荷物も到着したと聞きました。
その荷物の一部は赤岡村の元作という者の荷物です。この手紙を持っていく本人です。元作は江戸で私の飯を炊いてもらっていた者で、まことに良い人なのでよろしくお取り成しください。大急ぎでこの手紙を書きましたので、ご推量ください。
最近は金がなくなりましたので、この船便では帰れなくなりました。私の帰国については、今月末から来月初めごろの出立を予定しています。ただし、土佐に到着するのは時間がかかると思います。
また、明日は千葉道場で常陸国からきた神道無念流の剣士との試合があります。
(裏面)
そのため今夜は竹刀や籠手の修繕がありいそがしく、詳しいことを書く時間がありません。
かしこかしこ
坂本龍

千頭清臣の『坂本龍馬』(博文館、大正3年)によると、龍馬は江戸を出立するにあたり、旅費のすべてを師匠に献上し、自身の帰路については道中の道場で剣術試合をおこない、その謝礼を宿賃にあてるという気ままな旅を続けたといいます。

こうして東海道を西へ下った龍馬は、9月3日に無事帰国し、実家へと帰りつきました。(参考『福岡家御用日記』)


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