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14. 結成! 土佐勤王党

瑞山、動く

万延元年(1860年)7月、土佐下士層の領袖である武市瑞山(半平太)は、島村外内、岡田以蔵、久松喜代馬らを引きつれて、中国・九州方面へ剣術修行の旅に出発しました。

このとき、坂本龍馬は「いまどき武者修行でもあるまいに」と評したと伝えられますが、武市の真のねらいは、西国の情勢を視察し、各藩の志士たちと交流を深めることにありました。

尊王攘夷思想が世を席巻するなか、ついに《土佐の墨龍》が動き出したのです。

そして、西国視察を終えた武市は、同志・大石弥太郎のもとめに応じて江戸へむかいました。大石は諸藩の尊王攘夷志士たちと交流を重ねており、武市をかれらに引きあわせることで、土佐藩を時勢に遅らせまいと考えたのです。

江戸に入った武市はさっそく、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作、薩摩の樺山三円、水戸の岩間金平らと会談しました。このとき議題となったのは、皇女和宮の将軍家への降嫁問題でした。

和宮降嫁問題

「和宮降嫁」とは、幕府が推しすすめた孝明天皇の妹・和宮と将軍・徳川家茂との婚姻のことです。この政略結婚には、条約調印をめぐって悪化した朝廷との関係を修復するとともに、朝廷の権威を利用して反幕勢力の批判をかわし、幕府権力の再強化をはかる目論見がありました。

ところが、この政略結婚はかえって尊王攘夷派を刺激しました。「降嫁はあくまで建前にすぎず、実際には和宮を人質とするものである」と主張し、実力をもって阻止しようという動きが広がっていきました。

かれらは和宮の輿を東海道の薩埵峠でうばい返し、同時に江戸で蜂起して老中・安藤信正を討ち取ろうと計画したのです。

久坂や高杉らもこの意見に賛同しましたが、武市は過激な手段に異議をとなえ、むしろ幕府に対抗する一大勢力の結集こそが急務であると主張しました。

「幕府のやり方はもちろん憎むべきだが、降嫁はすでに勅許された以上、それを妨げるのは正道ではない。今、諸君がただ血気にはやって行動をおこしても、成功はおぼつかず、同志を無為に死なせるだけだ。それよりも、我われはひとまず国もとに帰り、自藩の意向を勤王に統一し、藩主を奉じて上洛し、老中の言質にもとづいて正々堂々と幕府に攘夷の実行をせまろうではないか。これこそが正道であり、天下の人びとを奮起させ、尊攘の目的を成し遂げる道である」(瑞山会編『維新土佐勤王史』)

武市の意見は筋が通っており、説得力に富んだものでした。そのため、あえて異論をとなえる者はなく、和宮奪回の計画は中止されることになりました。このとき、武市の卓識に一同は感服し、かれの声望は志士たちの間で一段と高まったといいます。

大和魂を奮いおこせ!!

土佐の武市瑞山、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円の三者は会談をおこない、たがいに連携することを誓いあいました。そして、それぞれ帰国して藩論を尊王攘夷にまとめ、藩主を奉じて上洛し、一斉に勤王倒幕の兵をあげるという密約をかわしました。

そこで武市は、土佐に一大勤王運動を巻きおこすことを決意し、文久元年(1861年)8月、江戸に在住していた同志たちとともに「土佐勤王党」を結成しました。

まずは、江戸にいた8名が「土佐勤王党」に加盟。盟約文は大石弥太郎が起草し、党首である武市を筆頭に、大石、島村衛吉、間崎哲馬、門田為之助らが血判をもって署名しました。

『土佐勤王党盟約書』武市瑞山関係文書第一

盟曰
堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治れる御代の因循委惰という俗に習いて、独りも此心を振い挙て皇国の禍を攘う人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ。斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。
況むや皇国の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。彼の大和魂を奮い起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。左れば此中に私もて何にかくに争うものあらば、神の怒り罪し給うをもまたで、人々寄つどいて腹かき切らせんと、おのれ/\が名を書きしるしおさめ置ぬ。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太 小楯
  大石弥太郎 元敬
  島村衛吉 重険
  間崎哲馬 則弘
  門田為之助 穀
  柳井健次 友政
  河野万寿弥 通明
  小笠原保馬 正実
  坂本龍馬 直陰
(以下連署血判)


[現代語・意訳]
盟約
神聖な我国が異国の侵略を受け、古来から伝わる大和魂も今は消えて無くなってしまったのかと天皇は憂慮しておられる。しかしながら、平和な世の遊惰に流され、この心をふるいあげて皇国の禍を払いのけようとする者は一人もいない。
おそれ多くも我が主君(山内容堂)はこの事を心配し、幕府と談判におよんだが、かえってそのために罪(謹慎処分)を得た。立派なお考えをもっておられるのに、なぜ罪に落とすのか。君主が辱めを受けたとき、臣下は死を覚悟して恥をそそぐべきである。
今や皇国の危機は、今日より大なるはない。土佐の有志は大和魂をふるいおこし、一致団結して一点の私心をはさまず、互いに協力して国家の復興に尽くさねばならない。
錦の御旗がかかげられるときは、団結していかなる困難もいとわない事を誓い、天皇の御心を案じ奉り、我が主君の御志しを継ぎ、人民の不幸も取り除きたい。この中に私心をもって争う者があれば、神罰が当たる前に同志の手で切腹させることを誓い、ここに銘々の名を書き留めておく次第である。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太 小楯
 〈以下連署血判〉

翌月、帰国した武市は同志の糾合につとめ、最終的に192名が加盟しました。坂本龍馬は第9番目に署名しており、土佐における最初の加盟者となりました。

土佐勤王党に加盟した者の多くは、郷士や庄屋などからなる下士層が中心でした。上士層では小南五郎右衛門、佐々木三四郎、谷干城らが勤王党に理解をしめしたものの、実際に加盟したのは宮川助五郎ら、わずか数名にとどまっています。

一藩勤王の実現を目指す武市は、土佐勤王党の勢いを後ろ盾に、藩政を掌握していた参政・吉田東洋に対し、藩全体で尊王攘夷に踏み出すよう強く迫りました。

しかし東洋は、「当家は関ヶ原以来、幕府に対して深い恩義を受けてきた家柄である」として幕府の方針を重んじ、「尊王倒幕のごときは、浮浪の剣客や書生の輩が天下を混乱に陥れようとしているにすぎない。もってのほかである」とのべ、武市の進言を聞き入れようとはしませんでした。


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