14. 誠実可也の人物併撃剣家
水戸の遊説使
安政5年(1858年)11月19日、江戸から帰国していた坂本龍馬のもとに、「加藤於莵之助」「菊地清兵衛」と名のる人物から一通の手紙が届きます。
加藤の本名は住谷寅之助、菊地は大胡聿蔵。ともに水戸藩の尊王攘夷派に属する志士で、孝明天皇が水戸藩に下賜した「戊午の密勅」を諸藩に伝えるため、西国を遊説している途中にありました(「勅諚御回達之儀ニ付天下之諸侯応ずるや否、探索之為」『吉田健蔵日記』)。
戊午の密勅とは、同年8月、幕府が朝廷の勅許(天皇の許可)を得ないまま日米修好通商条約を調印したことをめぐり、孝明天皇が幕府と水戸藩に下した勅諚を指します。とくに水戸藩には、その趣旨を諸藩にも伝えるよう求める添書が付されていました。
そのおもな内容は、幕府による違勅調印を厳しく戒め、その経緯の説明を求めるとともに、諸藩とも衆議を尽くして幕政を立て直し、あわせて攘夷の実行につとめるよう求めるものでした。この密勅は、朝廷が幕政に対して異例のかたちで意思を示し、その意向を諸藩にも伝えようとした点で、大きな政治的意味をもっていました。
水戸藩ではこの対応をめぐり、前藩主・徳川斉昭に連なる尊皇攘夷派と、幕府との関係を重視する保守門閥派が激しく対立します。尊攘派は「全国の諸藩に廻達すべき」と主張し、これに対して保守門閥派は「速やかに幕府へ返納すべき」と反対します。
こうしたなか、尊攘派は外部からの支援を得ようと考え、住谷寅之助らを西国諸藩への使者として派遣しました。一行は11月17日、伊予と土佐の国境にある立川関に到着しますが、入国手形を所持していなかったため、ここで通行を拒まれます。
やむなく立川関付近に滞在し、土佐藩関係者への接触を模索するなかで、頼みの綱として白羽の矢を立てたのが、ちょうど郷里にもどっていた坂本龍馬でした。土佐藩内に直接足場をもたない住谷らにとって、龍馬は数少ない接触可能な相手だったとみられます。
住谷と龍馬に直接の面識はなかったようですが、幕臣・山岡鉄舟ゆかりの『尊攘遺墨』には、両者の名が見えており、間接的な接点をうかがうことができます。
尊攘派水戸藩士。安政5年(1858年)、水戸藩に下された戊午の密勅の趣旨を諸藩へ伝えるため、大胡聿蔵らとともに西国を遊説した。このとき、土佐の立川関付近で坂本龍馬と接触したことが知られている。安政の大獄によって蟄居処分を受けたが、その後、老中・安藤信正襲撃を企てた坂下門外の変に加わる。のち、慶応3年(1867年)6月、土佐藩士・山本旗郎に暗殺された。
土佐の田舎漢
住谷寅之助の要請に対し、坂本龍馬は「拝顔のうえで相談したい」と返書をしたため、そのうえで11月23日、川久保為介と甲藤馬太郎をともなって住谷のもとをたずねました。
『住谷信順廻国日記』東京大学史料編纂所蔵
◯安政五年十一月十八日、廿三日
十一月十八日以飛脚奥宮惣次竝坂本龍馬へ書状遣す。
龍馬は近々立川へ尋来候様返書来る、奥宮御城下より本と云十五里計にあると云、返書不来候事。
同廿三日龍馬(二五歳)尋来る。川久保為介(廿一歳)甲藤馬太郎(同)。龍馬誠実可也の人物併撃剣家。事情迂闊何も不知とぞ。
一、坂本話
小南忠左(五郎右カ)衛門 側用人江戸。
(仕置役今江戸)吉田元吉 当君公代蟄居より引上げ用たり。
大須賀五郎右衛門 先般内用被申付京師へ行候事あるとぞ。
一、当時君公病気申立引込、行々隠居の下知、さすれば先隠居様の子跡式の筈江国とも役人大替りたりと云。
一、隠居様へ万事内わ家中二つに分れ、逐々景気見居り決断の出来候者一人も無之とぞ。目付等へもいろ/\談合是非入国の事周旋の処出来不申事。
一、龍馬帰り是非大須賀尋来候様周旋致呉候筈の所沙汰なし。廿五日龍馬立川出立帰る。三日迄左右待候処何等沙汰なし。予は見切朔日出立。菊池氏は四日出立す。
一、外両人は国家の事一切不知。龍馬迚も役人名前更に不知、空敷日を費し遺憾々々。
一、(二百六十五里)土佐(側用人傑出)小南忠左衛門(当時台場受取に付大坂にあると云)高橋兄弟知識◯奥宮猪惣次(豊田知人会沢へ来ることあり)○(下略)
[現代語・意訳]
11月18日、飛脚を立てて奥宮惣次および坂本龍馬あてに書状を送った。
龍馬からは、近いうちに立川へ来るとの返書が届いた。奥宮は、土佐城下から関所までは15里ほどの距離があると語っていたが、ついに返書は来なかった。
同月23日、坂本龍馬(25歳)が立川にやって来た。同行者は、川久保為介(21歳)と甲藤馬太郎(同じく21歳)である。龍馬は誠実で、なかなか見るべき人物ではあったが、剣術家である。時勢にはうとく、事情をほとんど何も知らないようであった。
一、坂本の話
小南忠左衛門は側用人で、江戸詰めである。(※正しくは小南五郎右衛門)
仕置役の吉田元吉は、現在江戸にあり、藩主が蟄居していたころから引き立てて用いてきた人物だという。
大須賀五郎右衛門は、先ごろ内命を受けて京都へ赴いたことがあるという。
一、現在の藩主(山内豊信)は病を理由に引きこもっており、やがて隠居の沙汰が下る見込みだという。そうなれば、前藩主(山内豊資)の子(山内豊範)が跡を継ぐことになり、江戸詰めの藩士たちも大きく入れ替わる見通しである。
隠居様をめぐって家中は二つに分かれ、互いに出方をうかがっているばかりで、決断できる者は一人もいないという。目付らにもいろいろ相談し、何とか入国の件を周旋してくれてはいるが、どうにも実現しない。
一、龍馬が帰るにあたり、ぜひ大須賀五郎右衛門をたずねて取り次ぎを頼んでおいたが、その後は何の沙汰もなかった。龍馬は11月25日、立川を出立して帰っていった。こちらは12月3日まで知らせを待ったが、結局何の連絡もなかった。そこで私は見切りをつけて朔日に出立し、菊池氏は4日に立川を去った。
一、同行者の2人は国家のことをまったく知らなかった。龍馬でさえ役人の名前をまるで知らず、いたずらに日を費やしたことは、まことに遺憾であった。
一、ここから土佐までは265里ある。土佐では側用人の小南忠左衛門が傑出しているという。もっとも、当時は台場受取のため大坂にいるともいう。高橋兄弟は奥宮猪惣次と知己があり、奥宮は豊田の知人で、かつて会沢のもとを訪れたこともあるという。
面談をおこなった住谷は、龍馬について次のように記しています。
「龍馬、誠実可也の人物、併撃剣家。事情迂闊何も不知とぞ」
龍馬の人柄については一定の評価をあたえながらも、住谷が龍馬を国事に通じた人物とは見ていなかったことがうかがえます。住谷にとって龍馬は、誠実で見るべきところはあるものの、期待したほどには頼みになる相手ではなかったのです。
実際、龍馬が語った土佐藩の内情は、藩主・山内豊信(容堂)の病気と隠居の噂、家中における対立などに関するもので、住谷たちが求めていた入国や周旋に結びつくような情報ではありませんでした。
こうしたなか、住谷は藩政に影響力をもつ大須賀五郎右衛門への取り次ぎを龍馬に依頼します。しかし、当時の龍馬は一郷士に過ぎず、藩重役に直接働きかけられるだけの人脈も地位も備えていなかったのです。
やがて、住谷一行は土佐への入国がかなわないことを悟り、失意のうちに立川関をあとにしました。のちに住谷は、「老中の名前さえ知らぬ田舎漢を遥る/\と尋ねいきたるは、愚の至りなりし」(瑞山会編『維新土佐勤王史』)と嘆いたといいます。
もっとも、その「田舎漢」こそ、わずか数年後には天下を左右するほどの「大策士」として幕末政局の表舞台に躍り出ることになります。当時の住谷に、それを知るよしもありませんでした。