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3. 山内侍と長宗我部侍

長宗我部家は滅亡しました

幕末土佐における勤王運動の原動力となった郷士。かれらは武士の身分でありながらも、百姓や町人のようにあつかわれ、藩政への参画をゆるされていませんでした。

この土佐藩独特の郷士制度は、関ヶ原の合戦で西軍に加担した長宗我部盛親が土佐国を没収され、かわって遠州掛川の山内一豊があらたな国主となったことによりうまれました。

戦後、恩賞として掛川5万石から土佐一国24万石に封じられた一豊は、譜代の家臣に加え、上方で召抱えた諸国の浪人を引きつれて土佐に入りました。

山内一豊
山内一豊

一方、領地を没収され牢人となった長宗我部盛親は、京都伏見にうつり住み、寺子屋の師匠として暮らしていました。大名への復権をめざしましたが失敗し、大坂の陣では豊臣方に加担して戦いました。しかし、大坂夏の陣で徳川方に敗北し、盛親は戦場から逃亡しますが捕縛され、二条城でさらし者にされたのち処刑されました。

長宗我部盛親
長宗我部盛親

一領具足と浦戸いっき

当時、他国からあらたな領主が入国する場合、地元の遺臣を採用して人心を得るのが一般的でした。しかし、山内家は長宗我部遺臣を百姓身分に落とし、支配しようとしました。

そのため、生活の道をたたれたかれらは、長宗我部家の再興をもとめて立ちあがります。「一領具足」とよばれる下級武士が中心となり、浦戸城に立てこもって一揆をおこしました。決起した長宗我部遺臣の数は、1万7千余人といわれます。

一領具足

長宗我部家に属する半農半兵。平時は農耕に従事したが、合戦時には兵士として動員された。軍記物語『土佐物語』には「死生知らずの野武士なり」と記される。

これに対して、山内家は徹底的な武断措置でのぞみました。

浦戸城に籠城していた長宗我部重臣・桑名弥次兵衛らと策謀して、一揆軍を城外に締め出し、これを鎮圧しました。討ち取った273人の一領具足の首級は塩漬けにされ、大坂の徳川家康のもとにおくられたといいます。

その2ヶ月後、山内一豊は土佐に入国しましたが、浦戸一揆の残党狩りはつづきました。入国祝賀の一環として山内家主催の相撲大会を開催され、見物にあつまった群衆のなかに指名手配の残党がいたため、73人がとらえて種崎浜で磔に処せられました。

こうした処置により、長宗我部遺臣の上層部は国外に出て仕官の道をもとめ、一領具足のほとんどは帰農していきます。

一領具足のなかには、積極的に協力した者や技能を有する者もおり、かれらは仕官をゆるされました。しかし、それはごく一部で、不穏な空気の渦巻くなかで山内家の統治がはじまりました。

このような状況のなか、一豊は居城となる高知城の築城に取りかかりますが、工事を視察するさいには、用心のため同じ背丈・装束の影武者5人を同行させていたといわれています。

郷士制度の誕生

慶長18年(1863年)、土佐藩は布告を発し、長宗我部遺臣から希望するもの郷士として取り立て、香美郡山田村の新田開発に従事させました。あたらしく土地を開墾するかわりに、かれらには武士の身分があたえられたのです。

これが郷士制度のはじまりであり、かれらは《慶長郷士》とよばれました。

土佐藩が長宗我部遺臣の起用にふみきったのは、かれらの生活を助け不満をやわらげる懐柔策であり、さらに新田の開発と戦闘員の補充という富国強兵策にも役立たせるねらいがあったからでした。

郷士起用策は、2代目藩主・山内忠義につかえた野中兼山によって大々的におこなわれました。

正保元年(1644年)、香美郡野市を3町歩以上開墾した者を《百人衆郷士》と取り立て、承応2年(1653年)には長宗我部遺臣に限らず、他国の浪人もふくめて土佐国内の各地を開墾した者を《百人衆並郷士》として取り立てました。

その数は数百人にのぼり、寛文2年(1662年)の山内家家臣の上士が296人に対し、郷士は613人に達しました。このことから、新田の開発と郷士の起用がおおきな政策であったことがわかります。

その後も郷士制度の拡充は継続され、郷士の数は時代とともに増加していきました。

町人郷士の登場

郷士の増加とは裏腹に、貧困や病気のために没落し、職分や領知を維持することができなくなった郷士たちがあらわれ始めました。

その結果、かれらの身分である郷士株を金銭で他家にゆずるようになり、この現象が目立ち始めました。このようにゆずり受けて郷士となった者は《譲受郷士》、郷士株をゆずり地位をうしなったものは《地下浪人》とよばれました。

郷士株の他家への譲渡が盛んになるなか、商品経済の浸透による豪農や豪商が台頭し、下級武士は困窮したため、郷士の身分的条件が緩和されるようになりました。

江戸中期の宝暦13年(1763年)、未開地が多い土佐西部の幡多郡を開墾するさい、重罪人をもつ家系を除き、身分に関係なく新規郷士の募集に応じることがゆるされました。

これまでは百姓や町人が郷士となるためには他家から株をゆずり受けるしかありませんでしたが、一定の基準をみたすことで、正式に武士の身分を手に入れることができるようになったのです。

この結果、町人郷士が出現し、このとき起用された新規郷士は《幡多郷士》とよばれました。龍馬の坂本家も、明和7年(1770年)にこの郷士株を手にいれ、郷士となっています。


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