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3. 郷士・坂本家

坂本家の人びと

坂本龍馬がうまれた時の坂本家には、父母と兄姉あわせて6人の家族がいた。父・八平直足は39歳、母・幸は38歳で、長男の権平直方は22歳、長女の千鶴は19歳。次女の栄の年齢は伝わっておらず、三女の乙女は4歳であった。

◉ 坂本八平直足
父・八平は、寛政8年(1796年)に土佐郡潮江村の白札郷士・山本覚右衛門の次男としてうまれた。白札郷士とは、一般の郷士より上位に位置づけられた家格である。槍術や弓術に巧みで、書や和歌などの素養も身につけていたことから、郷士坂本家に婿養子として迎えられ、文化13年(1816年)に家督を相続した。

八平は、末っ子である龍馬のことをとくに心にかけており、かれが江戸へ剣術修行に出立するにさいには、「修行中心得大意」と題する訓戒状を与えている。

そのなかには「忠孝を忘れず修行に励み、浪費をせず、色香に迷わず、無事に帰国せよ」との教えが記されており、龍馬は「守」の一字を書いた紙に包み、この訓戒状を終生肌身離さず持ち続けていたという。

◉ 坂本幸
母・幸は、寛政10年(1798年)に坂本八蔵直澄の一人娘としてうまれた。夫・八平とのあいだに2男3女をもうけたが、弘化3年(1846年)、龍馬が10歳のときに亡くなっている。

その後、八平は北代家より伊予を後妻として迎えたが、龍馬の残した手紙や書簡類にはこの継母の名前は見えず、龍馬との関係は深くなかったと考えられている。

◉ 坂本権平直方
長男・権平は、文化11年(1814年)にうまれた。龍馬とは21歳の年齢差があり、兄であると同時に家長として父に近い存在で、深い敬意を払うべき人物であった。実際、権平に宛てた手紙では、姉・乙女に見られるような自由闊達な文体ではなく、格式を重んじた儀礼的な文面が用いられている。

権平は、川原塚家より千野を妻に迎え、天保14年(1843年)には一人娘の春猪(はるい)が誕生した。嘉永4年(1851年)には、父から坂本家の家督を相続している。

権平は、はじめ龍馬を後継者と考えていたが、龍馬自身がそれを固辞したため、娘・春猪の婿として鎌田清次郎を迎え入れ、養子とした。ところが後年、清次郎が離籍したため、権平は妹・千鶴の次男である習吉を新たに養嗣子とし、坂本家の家督を継がせている。

◉ 坂本千鶴
長女・千鶴は、文化14年(1817年)にうまれ、土佐国安芸郡安田村の郷士・高松順蔵に嫁いだ。天保13年(1842年)には長男・太郎、嘉永6年(1853年)には次男・習吉を出産している。

長男・太郎はのちに坂本直を名のり、龍馬の死後、その家名を継いだ。また、次男・習吉は坂本家の養嗣子となり、坂本南海男と称して郷士坂本家の5代目となった。

龍馬は、姉の嫁ぎ先である高松家にたびたび足を運んでおり、とくに義兄・順蔵を敬慕していた。乙女に宛てた手紙には、国事に奔走する自身の姿を順蔵にも伝えてほしいと頼み、「順蔵さんへも其の書き写し礼し書を御見せ」と書き送っている。

また、京都で定宿とした寺田屋や日野屋の居心地の良さを、「お国にて安田順蔵さんの家に居るような心持にており候」と表現しており、龍馬にとって高松家が、実家にいるような心持ちで過ごせる場所であったことがうかがえる。

◉ 坂本栄
次女・栄の生年は不詳であるが、高知城下の徒士・柴田作右衛門に嫁ぎ、弘化2年(1845年)9月13日に亡くなったことが、のちに発見された墓石によって確認されている。

一説には、龍馬の脱藩にさいして、この姉が銘刀を贈り、災いが一族におよぶことを恐れて自害したと伝えられている。しかし、栄の没年は龍馬の脱藩(1862年)より十数年早く、この逸話は年代と一致しない。そのため、後世に成立した伝承と考えられる。

◉ 坂本乙女
三女・乙女は体が大きく、「お仁王さま」のあだ名でよばれていた。龍馬にとっては、幼少期から身近に接していた理解者であり、ときに師のような存在でもあった。母の死後は母親代わりをつとめ、剣術や馬術などの武芸の心得から、和歌や書道といった教養にいたるまで、龍馬に多くのことを教えたと伝わる。

乙女は、天保3年(1832年)にうまれ、20代半ばごろに本丁筋2丁目の典医・岡上樹庵に嫁いだ。安政5年(1858年)に長男・赦太郎を出産したが、数年後に離縁して実家へ戻っている。

龍馬の横死後、乙女はその妻お龍(楢崎龍)の身を引き受け、しばらくのあいだ同居している。しかし、ほどなくお龍は土佐を去ることになり、その背景には坂本家との不和もあったと伝えられている。

才谷屋ものがたり

坂本家先祖書指出控
坂本家先祖書指出控(京都国立博物館所蔵)

天保9年(1838年)に作成された坂本家の『先祖書差出控』によると、同家の先祖は山城国の浪人であった坂本太郎五郎という。太郎五郎は戦国時代の末期、土佐国長岡郡才谷村に移り住み、そのさい「大濱」の姓を称したと記されている。

一方、家伝では、坂本家は清和源氏の流れをくむ美濃土岐氏の庶流にあたり、近江国坂本城を居城とした明智左馬之助秀満の末裔と伝えられている。天正10年(1582年)、山崎の合戦で明智方が敗れて坂本城が落ちたさい、太郎五郎は壺いっぱいの黄金とともに長宗我部氏のもとへ落ちのびたという。

明智左馬之助

明智光秀の重臣で娘婿。名は弥平次秀満とも。天正10年(1582年)の本能寺の変では光秀に従い、織田信長の討伐に関与し、その後は安土城の防衛にあたる。山崎の合戦で明智方が敗れた報を受けると、安土城を離れて居城である坂本城へ向かう。そのさい、琵琶湖の湖上を愛馬「大鹿毛」に乗って渡ったという逸話が伝えられている。

初代・太郎五郎は、才谷村において1町あまりの土地を耕作し、農業を営んでいた。その後、2代目・彦三郎、3代目・太郎左衛門へと受け継がれ、坂本家は農耕を家業として代を重ねていった。

天正16年(1588年)の検地によると、才谷村全体の耕地面積は15町5反6代3歩、小作人は45人が記録されている。そのなかで1町を超える土地を所有していた者は、わずか3人にすぎず、太郎五郎はそのひとりに数えられ、坂本家が村内の有力な農民であったことがうかがえる。

坂本家が才谷村から高知城下に移住したのは、江戸前期の寛文6年(1666年)のことで、4代目・八兵衛守之のときであった。守之は、本丁筋3丁目に家を借りて質屋を開業し、屋号を出身地にちなんで「才谷屋」とした。

才谷屋
才谷屋

この守之は商才に恵まれており、延宝5年(1677年)に酒株を取得して酒造業をはじめた。さらに元禄7年(1694年)には、諸品売買にも事業を広げ、商家としての基盤を着実に築いていった。

寺石正路『南国遺事』聚景園武内書店、大正15年(1926年)

当時、高知城下の分限者は、中央にて仁尾久太夫と櫃屋道清、是第一けり。下町にては酒屋の根来屋又三郎(桂井素庵の事)、上町にては此坂本の才谷屋八兵衛等皆屈指のものなりき。(因にいふ浅井川崎両家は、文化文政以後の出世にて当時は其名なし)

そのあとを継いだ5代目・八郎兵衛正禎は、元禄14年(1701年)、本丁筋3丁目に間口6間(約10m)、奥行18間(約32m)の大きな屋敷を買い取り、呉服販売や鬢付油の製造など、新たな事業に乗り出す。

さらに享保16年(1731年)に、正禎は本丁筋の町年寄に選ばれ、藩主への目通りを許されるほどの分限を持つようになった。こうした基盤の上に才谷屋は驚異的な発展をみせ、やがて城下町において、豪商の播磨屋や富商の櫃屋と並び称されるほどの商家へと成長した。

上町の年寄役をつとめた6代目・八郎兵衛直益の時代、才谷屋は最盛期を迎える。店構えは、間口が8〜9間(約15m)、奥行きが数十間(推定50m)におよぶ土蔵造りで、敷地内には数棟の酒蔵が並び、使用人も十数人を抱える繁盛ぶりだったという。

寺石正路『南国遺事』聚景園武内書店、大正15年(1926年)

其本丁の店は間口八、九間、奥行数十間の大土造構にて、数棟の酒倉は甍を争ひ、使用する童僕婢女の数さへ十余人に上り、店務繁昌の有様は余所の見る目も羨む程なりきとぞ

その勢いは俗謡にも詠まれ、「浅井金持、川崎地持、上の才谷屋道具持、下の才谷屋娘持」とうたわれるほどであった。ここでいう「道具持」の家こそが、坂本龍馬につながる才谷屋である。

大濱より坂本

明和7年(1770年)3月、土佐藩は幡多郡の未開地開発を進めるため、新たに郷士を取り立てる募集をおこなった。これは、それまでの家格にとらわれず、功績や資力をもつ者に郷士株の取得を認めた政策であった。

才谷屋6代目当主・八郎兵衛直益はこの募集に応じて郷士株を取得し、才谷屋は町人と郷士の身分をあわせ持つ家となった。その後、財産分与に際し、長男の八平直海が分家して郷士坂本家を創立し、次男の八次直清が本家・才谷屋を相続した。

このとき、分家した八平直海は、もとの姓である「大濱」から「坂本」へと改姓した。「坂本」の姓については、明智左馬之助の末裔であるとする伝承もあるが、明智光秀の居城であった坂本城が近江国滋賀郡坂本にあったことや、家紋が同じ桔梗紋であったことから結びつけられた俗説とみられている。

その後、坂本家の系譜は2代目・八蔵直澄、3代目・八平直足、4代目・権平直方と続き、権平の弟が龍馬直柔である。

権平は、はじめ龍馬を後継者として考えていたが、龍馬がこれを固辞したため、娘・春猪の婿として鎌田清次郎を迎え、養子とした。ところが後年、清次郎が離籍したため、権平は妹・千鶴の次男である習吉をあらたに養嗣子とし、坂本家の家督を継がせている。習吉はのちに坂本南海男と称した。

一方、龍馬には妻お龍(楢崎龍)とのあいだに子がなかったため、姉・千鶴の長男である高松太郎が龍馬の名跡を継いだ。明治4年(1871年)、太郎は明治政府より永世十五人扶持を与えられ、坂本直と改名した。

才谷屋の没落

本家である才谷屋は、幕末のころにはすでに家運が傾きはじめていた。嘉永2年(1849年)、八太郎直与は、かつて家の繁栄を支えた酒造業を他家に譲り、以後は質屋業と藩士の家禄米を担保に金銭を貸し出す「仕送屋」を専業とした。

この転換によって、才谷屋の商いは、酒造を軸とするものから、藩士への貸付を中心とする金融的な商いへと姿を変え、武士階級の経済と深く結びついていった。

しかし、明治維新を迎えると、才谷屋を取り巻く状況は一変した。秩禄処分によって家禄の支給が廃止されると、旧藩士への貸付金は返済の基盤を失って回収が困難となり、才谷屋は深刻な経営難に陥った。

明治期に入ると、生活基盤を失った旧藩士たちは、新政府主導の士族授産事業など、新たな経済活動に活路を求めるようになった。そうした動きのなかで、才谷屋も共同出資による事業に関与したが、成果をあげることはできず、多額の損失を抱えることとなった。

こうして「上の才谷屋、道具持ち」と称された才谷屋は、維新後の社会変動のなかで衰退の一途をたどり、明治15年(1882年)に破産した。

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