5. お仁王さま
乙大姉
坂本龍馬を知るうえで、欠かすことのできない女性がいます。「お仁王さま」のあだ名をもち、「龍馬よりも強い」といわれた三姉の乙女です。
3歳年上のこの姉は、男まさりで体がおおきく、料理や裁縫は苦手でしたが、剣術・馬術・弓術・水泳を得意としていました。このほかに、和歌や絵画をたしなみ、琴・三味線・一絃琴・舞踊・謡曲・浄瑠璃などの芸事をこなす文武両道の女性でした。
坂本乙女
龍馬が乙女にあてた手紙(『慶応元年9月頃付坂本乙女宛 龍馬書簡』)のなかに、「此龍がおにおふさまの御身をかしこみたふとむ所よくよくに思たまえ。乙大姉 をにおふさま」とある。
龍馬が乙女・おやべにあてた手紙(『慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛 龍馬書簡』)のなかに、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばんなり」とある。
龍馬は12歳のときに母親を亡くしてからは、乙女の手によってそだてられました。
乙女は夜中に龍馬をおこして寝小便を注意し、朝には習字をまなばせ、「古今集」「新葉和歌集」などを読み聞かせました。午後はみずから竹刀をとって剣術を仕込み、かれを厳しく鍛えあげたといいます。
この姉の世話になったことを龍馬はのちのちまで感謝しており、「おれは若い時親に死別れてからは乙女姉さんの世話になつて成長つたので親の恩より姉さんの恩が太い」(川田雪山「千里駒後日譚」『第4回土陽新聞』)と語っています。
弘松宣枝『阪本龍馬』民友社、明治29年(1896年)
彼の姉乙女は、丈高くして豊大、溌活にして撲実也。好んて勤王と云ひ、尊王と称し、行脚して天下を漫遊せんと企てたることあり。婦人らしき所なし。彼は彼の女を「お仁王」と云ひ、「天下第一の大あらくれ者」と評せり。「龍馬より強し」と賞むる者あり。或る人彼女を評して曰く、女装せる男子也と、適評と謂ふべし。
瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)
又其の三女を乙女と呼べるが、龍馬より長ぜること四歳、心も身も雄々しくて、坂本の「女仁王」の綽名つけられたり、偶ま龍馬が姉の浴衣を誤り着て出てしと云ふにても、其の身丈の弟に劣らぬを知るべく、乙女は短銃の音を好み、深夜に鷲尾山などの人なき処に上り、袖より短銃を取り出し、思ふがまゝに連発して、其の轟々たる反響にホホと打ち笑み立ち帰りしも、此の事は唯龍馬にのみ語りて、父母に知らしめざりしと、常に龍馬を励まして、之を奮励せしむること大方ならず、寧ろ龍馬が為めには一人の益友とも看做すべく、其の龍馬をして復た呉下の阿蒙にはあらざるよと人に云はしめしは、蓋し姉の力与りて多きに居る。
千頭清臣『坂本龍馬』博文館、大正3年(1914年)
乙女子は剛勇男子の如く真個女丈夫の態あり。常に好んで短銃を放ち、『八犬伝』『三国志』等を読む。されば時人は称して『坂本のお仁王さま』と呼び、『龍馬よりも強し』と謂へり。龍馬亦其の家信中に屡々『お仁王さま』『天下第一の大荒くれもの』などゝ称す。
龍馬は身の丈五尺八寸に余れる大兵なりしが、乙女子の骨格亦龍馬に劣らざりし者と見え一夕龍馬過ちて乙女子の衣を着け知らずして鏡川の納涼場に至り、傍人に数へられて漸く気付きし事なども有しといふ。
其の初め、乙女子他に嫁し、後ち家に帰れるは既に説く所の如し。其の家に帰るや、龍馬を愛撫して倦まず、怯を矯め、勇を励まし、以て其の性情を一変せしめたり。他日龍馬をして『どふぞ/\昔の鼻垂れと御笑ひ下さるまじく候』と自負せしめしもの、乙女子の感化与つて力あり。
お仁王の教育
坂本乙女は、天保3年(1832年)1月に、郷士坂本八平と幸の三女としてうまれました。本来の名は「留(とめ)」といい、3人つづいた女児の誕生をこれで留めるという意で名づけられました。“とめ”に敬称の“お”をつけると“おとめ”となり、これのあて字が「乙女」です。
安政3年(1856年)ごろ、乙女は、兄・権平のすすめで山内家の御典医・岡上樹庵と結婚しました。そして安政5年(1858年)に長男・赦太郎、慶応3年(1867年)に長女・菊栄(通説では庶子)を出産します。
娘の菊栄は、母よりうけた教えを次のようにつたえており、乙女が龍馬に対して、母親また師匠としてどのようにのぞんでいたか知ることができます。
宮地仁『おばあちやんの一生 岡上菊榮伝』岡上菊栄女史記念碑建設会、昭和25年(1950年)
【しきたり】
座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通りにし、客膳たる高脚の本膳には古式通りの三汁五采を供へ、自分の膳にすら魚は尾頭付きの鯛を常としたが、而も魚肉は只表面を食べるばかり、菊栄等が、裏の片身に箸を付くのをみては、武士の子にあるまじき尾籠の振舞とて叱責した。又来客に出す菓子は紅白のニ種を、夫れ/\別の高つきに盛った。そして之を食する作法として、先ず白菓子を先きに喰べ、次ぎに赤菓子を喰べる、そして如何なる場合にも双方三個以上を食するは違法なりとて、之を厳禁した。【学習】
かの女(菊栄)が6歳の春を迎えて、寺子屋入りをして習字や「孝経」の素読を受けるやうになると、自宅では乙女からは別に「小学」「大学」の講義を授けた。武術は小太刀、懐剣、手裏剣の外、柔道、騎馬、水泳まで習った。【水泳練習】
まづかの女を丸裸にして、その胴体を荒縄で縛り、縄尻を物干竿の先きへ括りつける。まるで竹竿へくくりつけた亀の子同然だ。かうしておいてかの女の体を水につける。かうやられたら何が何でも、手足をバタ/\やって体を浮かすようにせねば溺れるから、かの女も自然に泳ぎの要領を覚える。かの女の泳いでゐるうちは、その儘にしておくが、かの女が溺れかけると竹竿を手許に引き寄せる。【肝試し】
その一例を云ふと、かの女の7歳のとき懐剣を枕もとに置いて寝たが、真夜中に何者かに揺り起された。四辺を見ると其所には黒頭巾の大男が突立っていた。かの女はビックリして叫ばうとしたが、母の日頃の教訓はこゝぞと思って懐剣の鞘を払って、寄らば突かんと身構えた時、大男は覆面を取って、母乙女の姿となり、ただ一語「それでよろしい」と云って立去った。【女子教育】
一体男のする事で女に出来ぬものは何一つない。それが女に出来ないのは、女は男に叶はぬものとして、昔からそれをやらせなかったからだ。いづれ男女同様の仕事をする時がくる。其時女は家庭で男に従ふべきも、社会へ出て対等の場合は婦人も男子と競争せねばならぬ。今私がお前に教へるのは、其時の為じゃ。
不幸な結婚生活
夫・岡上樹庵とのあいだに一男一女をもうけましたが、乙女の結婚生活は不幸なものでした。姑とは折り合いがわるく、夫は癇癪持ちで気に喰わぬことがあると、かのじょの髪をつかんで殴りつけたといいます。
龍馬にあてた手紙のなかで愚痴をこぼしていることからも、岡上家とは不和であったことがわかります。
『文久3年6月29日付坂本乙女宛 龍馬書簡』
「先日下され候御文の内にぼふずになり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ」(「先日姉さんがくれた手紙には、尼になって山の奥にでも入りたい、と書かれていました」)
『慶応3年6月24日付坂本乙女・おやべ宛 龍馬書簡』
「御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこくに出かけ候御つもりのよし」(「病気がよくなれば、姉さんは土佐を出て他国へ出かけたいつもりがあるとのこと」)
龍馬は、荒くれる乙女をいさめ、「お前さまも出家するには、まだ若すぎるかと思うよ」「今は権平兄さんお家にいてください。私が土佐に帰るまでは死んでも待っていて下さい」と、必死に出奔を思いとどまるよう説得しています。
しかし、夫と女中の公文婦喜のあいだに子ども(菊栄のこと)がうまれたことから、乙女はこの岡上家にいることに耐えられなくなり、みずから離縁を申し出て実家にもどりました。
乙女とお龍
龍馬の横死後、身よりのなかったかれの妻お龍(楢崎龍)が、坂本家にやって来ました。このとき乙女と同居をはじめましたが、わずか数ヶ月でお龍は土佐を去っています。
勝ち気なふたりの性格があわなかった、お龍の素行に問題があった、あるいは龍馬の兄・権平が報奨金を目あてに意地悪な仕打ちをお龍にくわえて追い出したともいわれています。
実際のところ、乙女とお龍の関係はどのようなものだったのでしょうか。
明治32年(1899年)11月の土陽新聞に掲載されたお龍の回想録『千里駒後日譚』では、龍馬が「しんのあねのよふ二」したっていると紹介したとおり、乙女との仲は良かったと語っています。
川田雪山『千里駒後日譚』第4回土陽新聞、明治32年(1899年)
姉さんはお仁王と云ふ綽名があつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今姑らく略しぬ。されど這の女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期し端を改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。
これに対して、安岡秀峰(海援隊士・安岡金馬の三男)が、晩年のお龍から聞いた話(『反魂香』『阪本龍馬の未亡人』)によると、坂本家はお龍を引きとったものの、政府から下される龍馬の報奨金を目あてに、邪魔になったお龍を追い出そうとしてきたので、坂本家の人たちとは非常に険悪だったといいます。
安岡秀峰『反魂香』文庫、明治32年(1899年)
所が義兄及嫂との仲が悪いのです。なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのですが、龍馬には子はなし金は無論お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言つて殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身持をする様に仕向て居たのです。
既に坂本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解する、お良を養ふ者はさしずめ兄より外にありませむから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違ひない、その時はお良は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へば赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で始終喧嘩ばかりして居たのです。
之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、妾あ金なぞはいらない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追い出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つて居ましたが、坐して喰へば山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、遂には糊口に苦む様になりました。
安岡秀峰『阪本龍馬の未亡人』実話雑誌、昭和6年(1931年)
茲で少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質から言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑のおしやべりであつた。俗に言ふ侠の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
坂本はぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領と仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつたのだ。
ふたりの関係については、正反対の記録がのこされていますが、険悪だったとした『反魂香』の内容が事実であると思われます。
ことの真偽はべつとして、龍馬の死後、お龍はひどい困窮のなか(取材時も貧乏長屋で酒びたりでした)にあり、じぶんを見捨てた坂本家・海援隊士たちを恨んでいました。
仲が良いとした『千里駒後日譚』が掲載された土陽新聞の読者は高知人であり、龍馬の家族を悪しざまに言う記事を書くことはできなかったと考えられます。
晩年の乙女は、坂本家の養子・坂本直寛(姉千鶴の次男)に養われていました。しかし明治12年(1879年)、土佐でコレラが大流行し、乙女は感染をおそれて野菜を食べませんでした。そのため壊血病にかかり、8月に死去。享年48歳。