5. 落ちこぼれ少年
はなたれのなく頃に
坂本龍馬の少年時代は、臆病で意気地のない子どもでした。いつも無口なうえ、10歳をすぎても寝小便の癖が直なおらなかったため、近所の人びとは陰で、龍馬のことを「洟垂(はなたれ)」とよんでいました。
12歳になった龍馬は、城下小高坂にある楠山庄助の私塾に通いはじめます。しかし成績はふるわず、動作もにぶく、気も弱かったため、通学の途中で学友から馬鹿にされ、いつも泣きながら家に帰っていたといいます。
ある日、学友の堀内と口論となり、堀内が刀で斬りかかるという騒ぎがおこりました。龍馬は、とっさに文庫箱のフタを取り、盾にしてこれを防いだと伝えらています。
騒動はその場でおさまりましたが、事の顛末を知った師匠は「非は堀内にあり」として、堀内を退塾処分としました。ところが、龍馬の父・八平は「龍馬にも罪がなかったわけではない」として、みずから願い出て龍馬を退塾させています。
この一件のあと、龍馬が正式に学問をおさめる機会はほとんどなく、のちに本人も「余早くより学を廃し、今は不幸にして無学者となれり」と語っています。
しかしながら、この多感な少年時代に、武士階級の教養として重んじられていた朱子学を深く学ばなかったことは、かえって封建的な思想にとらわれず、のちの龍馬の柔軟で独創的な発想を育んだとも考えられています。
坂崎紫瀾『汗血千里駒』春陽堂、明治18年(1885年)
龍馬は十二三歳の頃までは余にその所行の沈着にして小児のごとく思えず、あたかも愚人に等く、就中夜溺の癖さえあればその友に凌ぎ侮らる〻事あれども、あえて悖逆色とてなく尋常の才ある童子が早く頭角嶄然と人目を驚かす類のなかりしは、これぞ龍馬が大器晩成の徴証と謂わんか。
弘松宣枝『阪本龍馬』民友社、明治29年(1896年)
幼にして、怯弱物に臆し、十四まで夜溺止まず。友に侮らる〻もあえて逆わず。所行沈着にして小児らしきところなく、かつて小高阪某家に通学す、途中屡々学友に揶揄せられ、屡々泣きながら帰る。されば固より修学の時少く、尋常の才ある童子が嶄然頭角を現わす類いなかりしは、これ彼が大器晩成の徴証と謂わんか。
十三歳の頃、学舎において痛く友人に嘲笑せられ、怫然剣を抜てこれを斬らんとし、たちまち一場の騒動を惹起してより、是より断然文事を廃し武を修めたり。後ち人に語りて曰く、余早くより学を廃し今は不幸にして無学者となれり、と。
瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)
そもそも龍馬の伝記において最も特色あるは、彼がいわゆる大器晩成の事実なりとす、彼の童時は物に臆して涕泣し易く、故に群児の侮蔑を受くるも、あえて怒らず、後年彼が兄権平に与えし書中にも、左の談語ありき。「どふぞ昔の鼻垂れと御笑下されまじく候」。
幸子は龍馬が十一歳の時、即ち弘化三年乙巳八月、未だ愛児の嶄然頭角を世に露わすを見るに及ばすして身まかりぬ。当時龍馬は小高坂村の楠山某家に就き、習字と四書の素読を始めしに、たまたま学友と衝突して切りかけられ、薦めに退学したり。父母は再び過ちあらんことを恐れて、他に通学なさしめざりしより、遂に文学の素養を有する期を失いたり。彼は已に十四歳を過ぐるも、時に夜溺の癖を絶たず、父といえどもその遅鈍なるに大息せしが。
千頭清臣『坂本龍馬』博文館、大正3年(1914年)
世の龍馬伝曰く。初め龍馬は怯懦にして暗愚なるがごとく。居常寡黙、十歳を過ぎても夜溺れ(寝小便なり、土佐の方言)の癖止まず。隣人称して洟垂(痴児の意、亦土佐の方言なり)という。十二歳の時、始めて市外小高坂楠山(あるいは志和ともいう)某の学舎に入りしも、業進まず、通学の途上屡々学友に揶揄せられ、泣きて家に帰る。されど時を経るに従い識量、ようやく群を抜き、大器晩成の称を得たりと。真か偽か、今これを断ずるに由なけれど、四五の逸事、なお片鱗を描くものなきにあらず。
堀内某という者、龍馬と共に学舎に遊ぶ。一日、龍馬と口論し、抜刀して龍馬を斬らんとするや、龍馬少も騒がず、手を伸べて文庫の蓋を取り、従容として堀内を防ぐ。諸友また堀内を抱き、龍馬を救い黒白を師に訴う。師曰く、非堀内にありと。しかして直ちに堀内を退学せしめたれば、龍馬の父、師を訪い、龍馬また罪なきにあらずと称し、請打て終に龍馬を退学せしむ。
笑われまじく候
一般に少年時代の龍馬は、「落ちこぼれ」であったと広く知られています。こうした通説に異をとなえたのが、龍馬の伝記を著した千頭清臣でした。
千頭は、大正3年に刊行した『坂本龍馬』第2版増補のなかで、「坂本は決して馬鹿者にあらず。子供相当分別ありし人なり」と、当時の龍馬を知る人物の証言を紹介して、この愚童説を否定しています。
一方で、近郷の婦人たちのあいだでは「龍馬さんはぼんやりだ」と語られていたとも伝えられており、かれの少年時代は、特別に優れても劣ってもいない、いわば「普通の子」だったのかもしれません。
千頭清臣『坂本龍馬』博文館、大正3年(1914年)
坂本の幼年時代は真の馬鹿にてありきと評し居る者あり。これは大なる間違いなりと聞く。よく坂本の幼年時代を知れる先輩の話によれば「坂本は決して馬鹿者にあらず。子供相当分別ありし人なり」と云う。要するに坂本がその姉に贈りし手紙の一に「どうぞ、私を昔の鼻汁垂れと思ひ下され間敷候云々」という物あり。これよりして子供時代を事実上まさしく馬鹿なりきと、誤解する人を生じたるかと察せらる。(中略)もっとも当時その附近郷の婦人連が誰れ云うとなく「龍馬さんはぼんやりだ」と謂い居りしと聞く。これあるいは実を得たる批評ならむか。所謂大器晩成とは是等の謂なるべく、坂本は断じて現代青年のごとき小才子にてはあらざりしなり。
[現代語・意訳]
坂本龍馬の幼年時代は、真の馬鹿であったと評している者がいる。これは大きな間違いであると聞く。よく坂本の幼年時代を知る先輩の話によれば、「坂本は決して馬鹿者ではない。子供なりの分別があった子だった」という。要するに坂本がその姉(乙女)に送った手紙の一節に、「どうぞ、私を昔のハナタレと思わないで下さい云々」というものがある。これによって、彼の子供時代を事実上まさしく馬鹿であったと、誤解する人が出てきたと察する。(中略)もっとも近郷の婦人たちは誰言うとなく「龍馬さんはぼんやりだ」と言っていたと聞く。これはあるいは実を得た批評ではないだろうか。いわゆる大器晩成とはこのようなことをいい、坂本は断じて現代青年の如き小才子ではない。
「落ちこぼれ説」が流布されるようになったのは、龍馬が姉・乙女にあてた手紙に書いた「どうか昔の鼻タレが偉そうになどと笑わないでください」という一節が、のちの伝記において、大器晩成を強調するために誇張・脚色されたことによると考えられます。
『慶応2年12月4日付坂本権平・一同宛 龍馬書簡』
「一、私唯今志のびて、西洋船を取り入たり、又ハ打破れたり致し候ハ、元より諸国より同志を集め水夫を集め候へども、仕合セにハ薩州にてハ小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ、甚だ当時ハ面白き事にて候。どふぞ/\昔の鼻たれと御笑い遣わされまじく候」