7. クロフネ
黒船来航
坂本龍馬が修行をはじめて間もない嘉永6年(1853年)6月3日、天下を震撼させる大事件がおこりました。アメリカの東インド艦隊司令官ペリーが4隻の黒船をひきいて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を携えて幕府に開国をせまったのです。

黒船来航
幕府は前年のオランダ風説書の情報から、アメリカが条約締結をもとめて艦隊を派遣することを事前に把握しており、これまでの外国船と同様に追いかえそうとしました。
しかし、ペリーはこれを断固として拒否し、上級役人による国書の受理を要求しました。そして圧力をかけるため、祝砲や号令と称して空砲を多数発射し、無断で江戸湾に侵入して測量するなどのうごきをみせました。
アヘン戦争で清国がイギリス艦隊に敗北したことを知っていた幕府は、この軍事的示威活動に狼狽し、従来の外国の国書は受領しないという方針を変更、ペリー側に国書を受けとったうえで、回答に1年間の猶予をもとめました。
ペリーはこの申し出を受けいれ、浦賀ちかくの久里浜に上陸して大統領からの国書を浦賀奉行に手渡すと、翌年ふたたび来航することを予告し、6月12日に江戸を退去しました。
このときの幕府の混乱ぶりは、当時よまれた狂歌「泰平の 眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず」にあらわれています。上喜撰とは宇治の高級緑茶のことで、これとペリー艦隊の蒸気船を掛け合わせ、わずか4杯で夜も眠れないという状況を皮肉っています。
異国人の首
幕府はペリーとの会談にのぞむ一方で、江戸湾沿岸に藩邸をもつ諸藩に対して沿岸の防備を命じました。このとき、土佐藩は藩邸のある品川近辺を割りあてられ、江戸詰めの藩士を動員して9月まで警備をつとめました。
龍馬も「臨時御用」の名目で召集されました。この様子を父にあてた手紙には、「異国船はところどころにあらわれているようなので、戦が始まるのも近いのではないかと思われます。その節には異国人の首を打ち取り、土産にして帰国いたします」としるし、攘夷にあつく燃えています。
『嘉永6年9月23日付坂本八平直足宛 龍馬書簡』
一筆啓上仕候。秋気次第に相増候処、愈々御機嫌能可被成御座、目出度千万存奉候。次に私儀無異に相暮申候。御休心可被成下候。兄御許にアメリカ沙汰申上候に付、御覧可被成候。先は急用御座候に付、早書乱書御推覧可被成候。異国船御手宛の儀は先免ぜられ候が、来春は又人数に加はり可申奉存候。
恐惶謹言。
龍
九月廿三日
尊父様御貴下
御状被下、難有次第に奉存候。金子御送り被仰付、何よりの品に御座候。異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国の首を打取り、帰国可仕候。かしく。
[現代語・意訳]
一筆啓上申しあげます。秋の気配が次第に増して参りましたが、父上におかれましては、いよいよご機嫌よろしいこととお慶び申しあげます。千万もめでたいことと思います。私は無事に日々を送っておりますのでご安心ください。兄上のおてもとにアメリカ船来航の一件をお送りしましたので、ご覧いただければと思います。急用でしたので、早書き乱文の手紙となりましたが、よろしくご判読ください。この異国船対応の儀はいったん免じられましたが、来春にはまた動員に加わるものと考えております。
恐惶謹言。
龍
9月23日
尊父様御貴下
お手紙をくださりありがたき次第と存じます。また金子をお送りいただき、何よりありがたい品でございます。異国船はところどころに来ているようなので、戦が始まるのも近いことかと思われます。その節には異国人の首を打ち取り、土産にして帰国いたします。
砲術修行
嘉永6年(1853年)9月、沿岸防備の任務をとかれた龍馬は、剣術修行を再開する一方で、黒船の脅威にそなえるため西洋砲術をまなぶ必要性を感じ、佐久間象山の門をたたきました。
象山は「東洋道徳、西洋芸術」をとなえる西洋兵学の第一人者として知られ、砲術・兵学・科学・医学など幅広い知識をもつ人物でした。
塾には多くの幕臣や諸藩士が名を連ね、のちに龍馬の師となる幕臣の勝海舟や、「松下村塾」をひらいた長州藩の吉田松陰、「米百俵」の逸話で知られる長岡藩の小林虎三郎、河井継之助、越前福井藩の橋本佐内、肥後藩の宮部鼎蔵、土佐藩の溝渕広之丞などがいました。
龍馬の名前も、象山の門人を記録した『及門録』の「嘉永六癸丑歳六月砲術稽古出座帳抄録」12月1日の項目に確認することができます。

及門録(京都大学附属図書館所蔵)
一番右から、大庭穀平、谷村才八、坂本龍馬
しかし、龍馬が象山からおしえをうけたのは、わずか4ヶ月と短い期間で終わっています。これは、象山が門人であった吉田松陰のおこした海外密航未遂事件に連座し投獄され、その結果、国もとの信濃国松代で蟄居を命じられたためです。
その後、象山は蟄居をとかれ、元治元年(1864年)3月、一橋慶喜にまねかれて入洛しました。そこで幕府や朝廷の要人に《公武合体》と《開国》を進言しましたが、これが尊攘激派の怒りを買い、同年7月11日に河上彦斎らによって暗殺されました。

佐久間象山
松代藩士。儒学の第一人者である佐藤一斎に朱子学を学び、藩主真田幸貫が幕府の海防掛に任ぜられると、顧問として海外事情の研究を命じられる。西洋兵学を江川英龍に学び、黒川良庵に蘭学を学んで、砲術・兵書・医術をはじめ様々な海外知識を身につけ、「海防八策」を献上した。嘉永3年(1850年)に深川藩邸で砲術の教授を始めると、吉田松蔭、小林虎三郎、河井継之助、勝海舟、橋本左内ら多くの有能な人材が門下生として集まった。安政元年(1854年)、門人の吉田松蔭の海外密航未遂事件に連座して松代に蟄居を命じられたが、元治元年(1864年)幕命で上洛した。公武合体論と開国論を積極的に主張したため、7月11日に三条木屋町において尊攘派の河上彦斎らによって暗殺された。