8. 江戸遊学
剣のはじまり
坂本龍馬が剣術の修行をはじめたのは、14歳のときのことだった。父・八平のすすめもあり、城下築屋敷にある日根野弁治の道場に通い、「小栗流」の剣術を学んだ。
小栗流は、小栗仁右衛門正信を流祖とし、新陰流の剣術を土台に、和術、居合術、小太刀術、槍術、薙刀術などをあわせて教える、総合的な武芸の流派である。
剣術との出会いは、龍馬に大きな変化をもたらした。道場の荒稽古に鍛えられるなかで、それまでの臆病で気弱な性格にも変化がみられるようになる。剣の筋もよく、自信をつけた龍馬は熱心に修行に打ちこみ、短期間のうちに上達をみせた。
当時の龍馬について、師範代をつとめた土居楠五郎は、「何度打ちのめされても、また向かってくるので閉口した」と、のちに語っている。
そして嘉永6年(1853年)3月、19歳になった龍馬は、師匠・日根野から『小栗流和兵法事目録』を授与された。これは小栗流の初伝にあたる免状で、修行の第一段階を修めたことを示すものである。

小栗流和兵法事目録(京都国立博物館所蔵)
父の訓戒
坂本龍馬はさらなる研鑽を志し、藩庁から15ヶ月間の国暇を許されて江戸へ遊学する。この剣術修行に旅立つにあたり、父・八平は末っ子である龍馬の一人旅を深く案じ、『修行中心得大意』と題された訓戒状をあたえた。
そこに書かれていたのは、次の3か条である。
一、片時も忠孝を忘れず、修行を第一とすること
一、諸道具に心を移し、金銭を無駄に使わぬこと
一、色欲に心を奪われ、国家の大事を忘れるような心得違いがあってはならぬこと
この訓戒については、海援隊士・関義臣の遺談によると、龍馬はこれを紙に包み、みずから「守」の一字を書き添えて、終生大切にしていたと伝えられている。

修行中心得大意(京都国立博物館所蔵)
『修行中心得大意』坂本龍馬桂小五郎遺墨
修行中心得大意
一、片時も不忘忠孝、修行第一之事
一、諸道具に心移り、銀銭不費事
一、色情ニうつり、国家之大事をわれ、心得違有間じき事
右三ヶ条胸中ニ染メ修行をつミ、目出度帰国専一ニ候
以上
丑ノ三月吉日 老父(印)
龍馬殿
江戸にて
嘉永6年(1853年)4月中旬、坂本龍馬は江戸に到着し、土佐藩の屋敷に身を寄せた。このとき龍馬が滞在した宿舎については、坂崎紫瀾による『汗血千里駒』、弘松宣枝の『阪本龍馬』、千頭清臣の『坂本龍馬』などの伝記では、「鍛冶橋の上屋敷に滞在した」と記されている。
しかし、上屋敷は藩主の居所で藩政の中心でもあり、郷士の弟にすぎない龍馬がここに滞在したとする点には疑問が残る。
一方、のちの安政3年(1856年)におこなわれた2度目の江戸遊学のさいには、龍馬が築地屋敷に滞在していたことが、本人の手紙によって確認できる。
また、この当時武市半平太が故郷の島村源次郎にあてた手紙に「龍馬、弥太郎(大石)、私三人同宿に候」(『安政4年8月17日付島村源次郎宛 武市瑞山書簡』)と記していることからも、龍馬が武市や大石弥太郎と共同生活を送っていたことがうかがえる。
こうした史料を踏まえると、初回の遊学においても、宿舎は鍛冶橋の上屋敷ではなく、築地の中屋敷であった可能性が考えられる。龍馬はここから京橋桶町にある北辰一刀流の千葉定吉道場へ通い、剣術修行に励んだ。
桶町千葉道場
坂本龍馬が入門した北辰一刀流は、幕末に大いに隆盛をきわめた剣術流派である。創始者である千葉周作は、北辰夢想流と小野派一刀流の技法を融合させ、実戦性と合理性を重んじた剣術体系を確立した。
従来の多くの流派では、神秘的な型稽古や口伝を重視し、伝位制度も複雑なものがあった。これに対して、周作は竹刀と防具を用いた打込稽古を重視し、初目録・中目録免許・大目録皆伝という3段階の明確な伝位制度を整えた。
この合理的な指導方法により、門人は比較的短期間で修行を進めることができ、伝位を進める際の費用負担も軽減された。こうして神田お玉ヶ池に開かれた「玄武館」には、各地から多くの門人が集まったという。
その盛況ぶりは、鏡新明智流・桃井春蔵の「士学館」、神道無念流・斎藤弥九郎の「練兵館」と並んで江戸三大道場のひとつに数えられ、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評価されるほどであった。
龍馬が通ったのは、周作の実弟・千葉定吉が京橋桶町に開いた支流の道場である。兄の玄武館が「大千葉」と称されたのに対し、こちらは「小千葉」と呼ばれていた。もっとも、龍馬の入門当時、定吉は鳥取藩江戸屋敷で剣術の指導にあたっていたため、長男の重太郎が龍馬の指導にあたったと考えられている。
北辰一刀流の剣客。千葉周作の弟。周作が興した北辰一刀流を修得し、「玄武館」の創設と運営に協力した。のちに、みずからも京橋桶町に道場を開いて独立する。兄の道場と区別するため、「桶町千葉」「小千葉」とも称された。嘉永6年(1853年)、鳥取藩から賄料を与えられ、江戸屋敷で剣術取立を命じられた。文久2年(1862年)には剣術家業として正式に召し抱えられ、翌年には藩士の剣術師範を命じられている。明治4年(1871年)に長男・重太郎へ家督を譲り隠居、明治12年(1879年)12月5日に死去。