RYOMADNA

8. 君は人、僕は船

河田小龍

安政元年(1854年)6月、坂本龍馬は、1年4ヶ月の江戸遊学をおえて、故郷土佐に帰国しました。

心身ともにたくましく成長し、師匠の日根野弁治から剣術修行の成果をみとめられ、閏7月に『小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条』を伝授されました。これは小栗流の中伝目録にあたります。

そして、この年の冬、龍馬は時事についての意見を聞こうと、自宅近くの築屋敷に住んでいた河田小龍のもとをたずねます。

この小龍は狩野派の絵師ですが、蘭学に造詣が深いことを買われ、2年前の嘉永5年(1852年)に藩庁の命をうけ、アメリカに漂流し帰国したジョン万次郎の取り調べをおこないました。

このとき小龍は、万次郎を自宅に寄宿させながら話を聞き、その見聞・体験を挿絵入りの著作『漂巽紀略』にまとめています。

さらに安政元年(1854年)、土佐藩から薩摩藩に派遣された視察団に図取役として参加しており、反射炉や造船工場そのほか西洋式の設備を視察するなど、最新技術にもふれていました。

河田小龍
河田小龍
河田小龍

日本画家。土佐藩の船役人の家に生まれ、島本蘭渓について絵画、岡本寧浦のもとで儒学を学んだ。弘化元年(1844年)、土佐藩家老・吉田東洋に従って京都に遊学し狩野永岳に師事する。長崎で蘭学を学んだ後帰国し、自宅に画塾「墨雲洞」を開く。塾生には亀山社中・海援隊に参加した近藤長次郎、新宮馬之助、長岡謙吉などがいた。嘉永5年(1852年)、アメリカから帰国した漂流民中浜万次郎の取り調べをおこない、その口述に絵を添えた『漂巽紀略』を著した。安政元年(1854年)11月ころ、坂本龍馬と会談し海運と海防の構想を説き大きな影響を与えたという。

海軍創設の盟約

小龍の寓居をたずねた龍馬は、「今の時勢について君の意見が聞きたい」と、切り出します。もとめに対して小龍は、「私は一介の絵描きに過ぎず、世間の事はわからない」と、取り合おうとしませんでした。

しかし、龍馬もあきらめません。その熱意に負け小龍は、「攘夷はとても無理なことである。だが、開港するにしても攘夷の備えは必要である」と、自説を語りはじめました。

そして、諸藩の軍事力では外国勢力に対抗するのは不可能であることを説き、「まず商業を興し、金融を自在にすること。外国船を買いもとめ、同志をあつめて乗組員とし、日本の東西に旅客や荷物をはこんで、その利益を得ながら航海術を練習する。今からでは泥縄式だが、海軍力を充実させることが、外国勢力に対抗する道である」と、構想を披露しました。

この意見に、龍馬は手をたたいて喜びます。

「僕は若いころから剣術を好んできたが、それは一人の敵にしか役立たない。何か大きな事業を成さなければ、外国に勝つことは難むずかしいと思っていました。君の意見は僕の考えと一致する。これからは互いに尽力しよう」と、かたく盟約をむすびました。

しばらくして龍馬がふたたび訪れ、「船や器械は金策すれば手にはいるが、これを運用する同志がいないのが困る。僕はこの点に悩んでいるのだが、何か工夫はあるだろうか」と、たずねました。

この相談を受けた小龍は、「従来の俸禄に満足している人は志がない。身分の低い者の中には優秀で志もあるが、資力がなくて埋もれている者は少なくない。この者たちを教育すれば人材を確保することができる」と答えます。

「もっともの意見だ。これから君は人材を育成し、僕は船を手に入れることに尽くそう」と、龍馬は言って、乗組員の育成を小龍にまかせ、みずからは軍艦を手にいれることを誓い、わかれたといいます。

河田小龍「藤陰略話」『坂本龍馬関係文書 一』日本史籍協会、大正15年(1926年)

(前略)坂本龍馬、小龍ガ茅盧ヲ訪来リ、突然ト云ヘルニハ、時態ノ事ニテ君ノ意見必ズアルベシ。聞タシトアルヨリ、小龍大ニ笑フテ、吾ハ隠人ニシテ、書画ヲ嗜ミ風流ヲ以テ世ニ処ルモノナレバ、世上ノ事ニハ心懸ナシ。何ゾ一説アルベキヤト云ヘバ、坂本肯セズ「今日ハ隠遁ヲ以テ安居スル時ニアラズ。龍馬ナドハ如此世ノ為ニ苦心セリト、遠慮モナク身ノ上ノコトヲ述。僕个様ニ胸懷ヲ開ヒテ君ニ語ル上ハ、是非君ノ蓄ヘヲ告玉ヘト膝ヲ進メテ問ヘルユヘ、止ム事ヲ得ズ賤説ヲ略述セリ。其説ハ近来外人来航已来攘夷開港諸説紛然タリ。小龍ハ攘夷ニセヨ開港ニセヨ其辺ハ説ヲ加ヘズ。然ニ何レニモ一定セザル可カラズ。愚存ハ攘夷ハトテモ行ハルベカラズ。仮令開港トナリテモ、攘夷ノ備ナカルベカラズ。此迄我邦ニ用ユル所ノ軍備益ナカルベケレドモ、未ダ新法モ開ザレバ、何ヤ歟ヤ取用ヒザルベカラズ。其中ニ海上ノ一事ニ至テハ何トモ手ノ出ベキ事ナシ。已ニ諸藩ニ用ヒ来リシ勢騎船ナドハ、児童ノ戯ニモ足ラヌモノ也。先其一ヲ云フニハ、弓銃手ヲ乗セ浦戸洋ヘ乗出セバ、船ハ翻転シ弓銃手トモ目標定メガタク、其上ニ十ニ七八ハ皆船酔シテ矢玉ヲ試ムマデニ及バズ。タマ/\船ニ堪ユルモノアルトモ一術ヲ施ニ及バズ。大概沿海諸藩皆此類ナルベシ。箇様ノコトニテ外国ノ航海ニ熟シタル大鑑ヲ迎ヘシトキ、何ヲ以鎖国ノ手段ヲナスベキヤ。其危キハ論マデモナキコト也。今後ハ我拝ニ敵タハズトモ外船ハ時ニ来ルコト必然也。内ニハ開鎖ノ論定マラズ、外船ハ続々来ルベシ。内外ノ繁忙多端ニシテ国ハ次第ニ疲弊シ、人心ハ紛乱シ如何トモ諠方ナク遂ニ外人ノ為呂宋ノ如ク牛皮ニ包マルゝコトニモ至ランヤ。此等ノコト藩府ナドヘ喋々云立タリトモ聞入ベキコトニモナク、実ニ危急ノ秋ナルベシ。何為ゾ黙視シ堪ユベケンヤ。故ニ私ニ一ノ商業ヲ興シ、利不利ハ格別精々金融ヲ自在ナラシメ、如何トモシテ一艘ノ外船ヲ買求メ、同志ノ者ヲ募リ、之ニ附乗セシメ、東西往来ノ旅客官私ノ荷物等ヲ運搬シ、以テ通便ヲ要スルヲ商用トシテ、船中ノ人費ヲ賄ヒ海上ニ練習スレバ、航海ノ一端モ心得ベキ小口モ立ベキヤ、此等盗ヲ捕、縄ヲ造ルノ類ナレドモ今日ヨリ初メザレバ、後レ後レシテ前談ヲ助クルノ道モ、随テ晩レトナルベシ。此ノミ吾所念ノ所ナリト語レバ、坂本手ヲ拍シテ喜ベリ。且云ヘルニハ、僕ハ若年ヨリ撃剣ヲ好ミシガ、是モ所謂一人ノ敵ニシテ、何ニカ大業ヲナサゞレバ、トテモ志ヲ伸ルコト難シトス。今ヤ其時ナリ、君ノ一言善吾意ニ同セリ。君ノ志何ゾ成ラザランヤ。必ズ互ニ尽力スベシトテ、堅ク盟契シテ別レケルガ、ヤガテ又来リ云ヘルニハ、船且器械ハ金策スレバ得ベケレドモ、其用ニ適スベキ同志無レバ仕方ナシ。吾甚ダ此ニ苦シメリ。何カ工夫ノアルベキヤト云ヘルヨリ、小龍云ヘルニハ、従来俸禄ニ飽タル人ハ志ナシ。下等人民秀才ノ人ニシテ志アレドモ、業ニ就ベキ資力ナク手ヲ拱シ慨歎セル者少カラズ。ソレ等ヲ用ヒナバ多少ノ人員モナキニアラザルベシト云ヘバ、坂本モ承諾シ如何ニモ同意セリ。其人ヲ造ルコトハ君之ヲ任シ玉ヘ、吾ハ是ヨリ船ヲ得ヲ専ラニシテ、傍ラ其人モ同ク謀ルベシ。君ニハ人ヲ得ヲ専任トシテ、傍ラ船ヲ得テ謀リ玉ヘ、最早如レ此約セシ上ハ、対面ハ数度ニ及マジ、君ハ内ニ居テ人ヲ造リ、僕ハ外ニ在テ船ヲ得ベシトテ、相別レヌ。(後略)

藤陰略話

河田小龍の回顧録。明治27年に書かれた近藤長次郎の略歴をまとめたもの。藤陰とは長次郎の号。

カノン砲を撃つ

安政2年(1855年)の夏ごろ、龍馬は、江戸で佐久間象山にまなんだ西洋砲術をつづけるため、砲術家・徳弘孝蔵に入門します。

徳弘家は土佐藩の御持筒役をつとめ、孝蔵は藩命で江戸に留学し、旗本・下曽根金三郎のもとで高島流砲術を修得した土佐随一の砲術家でした。

砲術稽古の記録「濱稽古径倹覽」によると、安政2年(1855年)11月6日と7日、龍馬は、仁井田浜でをおこなわれた稽古に参加しています。

このとき、12斤軽砲を火薬量270目、仰角3度、導火線1寸3歩で撃ち放ち、目標8丁(約870m)に対して7丁(約760m)に着弾させています。

坂本龍馬の血判がおされた起請文
坂本龍馬の血判がおされた起請文(高知県立坂本龍馬記念館所蔵)

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