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9. アザとアゴ

再び、江戸へ

安政2年(1855年)12月4日、坂本龍馬の父・八平が60歳で死去しました。

母親に続いて、かけがえのない人をうしなった龍馬は、「慟哭食を廃すること数日。安政二年は此の悲痛の裡に暮れたり」(千頭清臣『坂本龍馬』)という日々を過ごしました。

そして安政3年(1856年)8月20日、藩から1年間の期限つきで剣術修行をみとめられると、龍馬はふたたび江戸にむけて高知を出発しました(参考『福岡家御用日記』)。

同じく7月には、武市半平太が臨時御用で江戸に出張を命じられ、その合間に剣術の修行を許可されていたことから、龍馬も同様の条件で出府がみとめられていたと考えられます。

9月下旬、江戸に到着した龍馬は、前回と同じく築地にある土佐藩中屋敷へはいりました。ここでは、一足先に出ていた武市や大石弥太郎と同宿することになり、さっそく故郷の相良屋源三郎に無事を知らせる手紙を書いています。

墨龍・武市瑞山

のちに土佐勤王党を組織する武市半平太(瑞山)は、龍馬より6歳年上の28歳。生家は白札格で、土佐の階級制度のなかでは上士と下士の間に位置する立場でした。

小野派一刀流の免許皆伝を持ち、土佐では城下の新町田淵に道場をひらいていた武市は、その謹厳実直な性格をもって下士たちの崇敬をあつめていました。門人は120名にのぼり、そのなかに中岡慎太郎、岡田以蔵、五十嵐文吉、久松喜代馬など、のちの土佐勤王党の同志が名を連ねていました。

江戸に出た武市は、京橋浅蜊河岸にある士学館で桃井春蔵にまなび、鏡新明智流の皆伝をうけて塾頭に任命されました。塾頭としては、乱れていた道場の風紀を正し、その気風を厳粛なものとしたといいます。

『維新土佐勤王史』では、武市瑞山の人物像について次のように記されています。「武市瑞山は長身(約180cm)で、鼻は高くエラの張った形の良い顎、目には尋常ではない鋭い輝きがある。顔は青白いほど白く、その表情は滅多なことでは動かず、人は墨龍先生と呼んだ。ひとたび口を開けば、その言説は気高く心の奥底までひびくことから、人びとは彼に傾倒していった」

    1. 『維新土佐勤王史』
      「瑞山身長六尺、隆準修腭、眼に異彩あり。其の顔蒼白、喜怒色に見はれず。人あるいは墨龍先生と呼ぶ。一たび口を開けば音吐高朗、人の肺腑に徹す」

龍馬と武市は遠縁関係にあたり、龍馬は実直な武市を《窮屈》といい、そのあごが長いことを冷やかして「アゴ」とよびました。一方、武市は龍馬の大言壮語を《法螺》といい、顔のホクロをさして「アザ」とよぶなど、兄弟のように親しく、互いに気さくに接していたといいます。

アザとアゴ

『維新土佐勤王史』に「門田為之助に向かひ、「坂本の『アザ(痣)』は帰国したとや、定めて大法螺を吹き居るならん」と、龍馬は又瑞山の近状を問いて「『アゴ(顋)』は相かはらず窮屈なことばかり云ふて居るか」とある。

武市瑞山
武市瑞山
武市瑞山

文政12年(1829年)9月27日、土佐国長岡郡の郷士武市正恒の長男として誕生。高知城下で剣術道場を開き、門下には中岡慎太郎、岡田以蔵らがいた。江戸に出て桃井春蔵に鏡心明智流を学び、士学館の塾頭をつとめる。桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作ら尊攘派志士と交流し「一藩勤王」をかかげ、文久元年(1861年)に土佐勤王党を結成する。帰国後、参政・吉田東洋を暗殺し藩の実権を掌握した。八月十八日の政変後、前藩主・山内容堂による勤王党への弾圧が始まると同志数名とともに投獄され、慶応元年(1865年)閏5月11日に切腹を命ぜられた。享年36歳。


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