見廻組・今井説 (四) 33年目の告白- 私が刺客です-
皇太后の奇妙な夢
月日はながれ、幕末ももはや遠い昔となったころ、維新志士たちの存在は、いつしか人びとの記憶から忘れ去られていきました。明治政府によって顕彰され、伝記『汗血千里駒』も出版されていましたが、坂本龍馬の名は、もっぱら郷里や一部の人びとのあいだで語られるだけにとどまっていました。
その名が突如として世に広く知られるようになったのは、没後三十余年を経た日露戦争のさなかのことです。
開戦を目前にひかえた明治37年(1904年)2月6日、葉山御用邸で静養していた昭憲皇太后は、ふしぎな夢をみたと伝えられています。夢のなかに無骨な風貌の壮士があらわれ、「わたしは坂本龍馬です。これより海軍を守護いたします。どうかご安心ください」と告げたのです。
皇太后は、龍馬の事績については以前から知っていましたが、その風貌までは知りませんでした。そこで夢に出てきた人物のようすを使者に伝え、天皇に報告させたところ、この話は廷臣たちのあいだでも評判となり、奇異な出来事として受け止められました。
そのころ、ときの遞信大臣だった大浦兼武も、この話を耳にします。公務のため関西へ出張していた大浦は、京都から奈良へ向かう途中、伏見にある大黒寺に立ち寄りました。
この寺には、文久年間の寺田屋事件で命を落とした有馬新七ら薩摩藩士9名の墓があり、大浦はこれを参拝したのち、寺田屋の遺址(鳥羽伏見の戦いで建物は焼失)にも足をはこびました。
寺田屋は、かつて旅籠を営んでいた宿で、淀川を行き来する船客が多く立ち寄る場所でした。訪問当時の家主は寺田伊助といい、すでに廃業して大阪にうつっていました。
伊助の母お登勢は、元治年間に夫を亡くしたあと、女手ひとつで家業をまもり、任侠心にあつく、勤王の志士たちをたびたび援助していました。龍馬もこの家に潜伏して大事をはかり、特に手厚い庇護をうけていたといいます。
伊助は、大浦兼武が伏見の旧宅をおとずれたことを聞き、自宅に保管していた龍馬からの手紙数通をえらび、東京にある大浦の邸宅へとどけました。
のちに大浦は皇太后に拝謁する機会を得て、この経緯を伝えるとともに、あわせて伊助がとどけた手紙を皇太后に進覧しました。これは7月のことです。
皇太后は、龍馬の遺墨をご覧になり、かつて夢で見た出来事を思いおこします。国のために尽くしながらも、志なかばにして凶刃にたおれた龍馬の最期に、深く心をよせられました。
そして、手紙を伊助に返すにあたり、特にこの日、金百円を下賜されることとなりました。大浦はその下賜金を伊助に託し、坂本龍馬の慰霊を取りおこなわせました。
伊助はこれに感激し、伏見旧宅にまつられていた有馬新七ら「薩藩九烈士遺蹟表」の碑のかたわらに、あらたに龍馬を顕彰する碑を建立しました。碑には慰霊の由来がきざまれ、皇太后から賜った御恩と栄誉が、後の世にまで伝えられることとなったのです。(『明治天皇紀』)
この話は明治37年(1904年)4月に、『時事新報』や『東京日日新聞』など新聞各紙に掲載され、大きな反響をよびました。ロシア帝国との開戦を目前にひかえていた当時、国民のあいだで士気は高まり、国家のために殉じた志士への敬慕の念が一層強まっていきました。
そして、翌年5月に東郷平八郎ひきいる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破し、日本海海戦で歴史的勝利をおさめます。この勝利を機に、坂本龍馬の名は「護国の鬼」としての逸話とともに、全国に広く知られるようになりました。
今井信郎氏実歴談
「昭憲皇太后の奇夢」が話題になった少し前のこと。静岡県で老農として余生をおくっていた元京都見廻組隊士・今井信郎は、京都時代の旧友・結城無ニ三のもとをたずね、旧交をあたためました。
ちょうどその場に無ニ三の長男・礼一郎が居合わせており、「坂本龍馬を斬った人だ。参考のためよく聴いておくがいい」と紹介されます。今井は「いや、つまらん事です」と言って断りましたが、礼一郎の重ねての願いに応じて、ついに重い口をひらき、坂本龍馬殺害の顛末を語りました。
当時、甲斐新聞の主筆をつとめていた礼一郎は、この貴重な証言を秘しておくのは惜しいと考え、連載記事として紙面に掲載します。この記事はのちに『近畿評論』の第17号に「今井信郎氏実歴談」と題して無断転載され、大きな論争を巻き起こすことになりました。
「坂本龍馬殺害者(今井信郎氏実歴談)」『近畿評論第17号』明治33年(1900年)
(今井信郎氏は今尚ほ遠州金谷に住す、本文は氏の談話筆記にして鶴城氏の寄稿に係る)
(一)
東京諸新聞の徒労、三河御譜代、筑波山事件に加わる、
長州征伐、義勇兵募集の請願
御維新の時、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬つたのは世間では近藤勇と土方歳三だと思つて居ますし、歴史にもそうあれば其当時の人も大概そうだと思つて居ましたが、実は私です。坂本も私なぞに斬られるより、近藤に斬られた方がよかつたかも知れませんハゝゝゝゝ。
(中略)
(三)
十一月十五日、先斗町にて時を過す、
同志合て四人、松代藩士なりと称す
御承知の如く当時は一体に気が立つて居りましてスワと云へば抜く斬ると云ふ始末ですから、御互ひに十分用意して居つて、仲々隙などあるものではありません。私も坂本なんと云ふ奴は幕府のためもならねば、朝廷の御ためにもなるものではない、只事を好んで京都を騒がせる悪漢故、是非斬つて仕舞はねばならぬ、と思ひましたが、さて何れが坂本で何処に居るのか少しも解りませんので、是には余程困りました。併し幸ひにも不図したことから蛸薬師に居る西谷と云ふのが坂本だと云ふことを確めましたから、愈やつて仕舞ふことにきめました。
それで十一月十五日の晩、今夜は是非と云ふので桑名藩の渡辺吉太郎と云ふのと、京都の與力で桂迅之助と云ふのと、外にもう一人、都合四人で出掛けました。私は一番の年上で廿六歳、渡辺は廿四歳、桂は廿一だつたと思ひます。私は其頃は今出川に居りましたが、夕方四人其処へ集つて未だ少し早いから、何時かで時を過さうぢやないかと申して、先斗町へ行つて十時過まで酒を呑んで、それから揃つて出掛けました。渡辺ですか、松村とも云つて居りました。仲々胆のすわつた男で、桂も若いに似合はぬ腕の利いて居たんです。惜しいことに二人とも鳥羽で討死して仕舞ひました。(此時記者は外にモウ一人と云ふその一人は誰れですかと問ひし処、今井氏はそれはまだ生きて居る人です。そしてその人が己の死ぬまでは決して己の名を言ふて呉れるなと呉/″\も頼みましたから今申上げることは出来ませんと答へ、強て請へども遂ひに口を開らかざりき。思ふに、今尚ほ或る一部の人の間に坂本を斬りたる者の中には意外の人ありとの説伝へられ、或ひは其人は今某々の顕官に在りと云ふが如き風評の行はれつゝあるは必竟此の辺の消息を洩らしたるにあらざるなきか。今井氏にして語らず、其人にして語らずんば、維新歴史の此の重要なる事実は遂ひに其幾分を暗黒の裡に葬り去らざるべからず、惜しみても尚余りあること、云ふべし。)
モウ余程寒くなつて居まして、表通りに人の往来もなく、十五夜の月がキラ/\頭上の方に光つて居ましたが、四人とも十分用心して、十時余程過ぎた時分に蛸薬師のその醤油屋へ参りました。そして私共は信州松代藩のこれ/\と云ふものですが、坂本さんに火急お目にかゝりたいと申した処、取次のものが、ハイと云つて立つて行きましたから、こいつは締めた、居るに違ひない。居さへすれば何様でもして斬つて仕舞うと思つて居ますと、其中に取次が此方へと云ひますので跡へついて二階へ参りました。
松代ですか。あの真田の藩です。坂本とは前から通じて居つたのです。四人ともいゝ加減の名を拵へて言つたのですから、今でも覚えて居ません。兎に角此方らへと云ひますから、行つて見ますと二階は八畳と六畳の二間になつて居ました。
(四)
坂本さん暫く、横鬢を切る、
京都の風評、脳天を三つ、
六畳の方には書生が三人居て、八畳の方には坂本に中岡が机を中へ挟んで坐つて居りました。中岡当時改名して石川清之助と云つて居りました。けれども私は初めての事であり、どれが坂本だか少しも存じませず、外の三人も勿論知りませんので早速機転をきかして、ヤゝ坂本さん暫くと云ひますと、入口に坐つて居た方の人が、どなたでしたねえと答へたのです。そこでソレと云ひさま、手早く抜いて斬りつけました。最初、横鬢を一つたゝいて置いて、体をすくめる拍子、横に左の腹を斬つて、それから踏み込んで右から又一つ腹を斬りました。此の二太刀で流石の坂本もウンと云つて仆れて仕舞ひましたから、私はモウいきついた事だと思ひましたが、後で聞きますと、明日の朝まで生きて居たさうです。
(図、省略)
それから中岡の方です。これは私共も中岡とは知らず、坂本さへ知らなかつたのですから無理はありません、坂本をやつてから、手早く脳天を三つ程続けて叩きましたら、そのまゝ仆れて仕舞ひました。御話しすれば長いのですが此の間はホントに電光石火で、一瞬間にやつて仕舞つたのです。然し室へ這入ります前に私のすぐ後へ渡辺がついて参りましたが、それが腰の鞘を立てゝ梯子を上りましたので、六畳に居た書生が、怪しいと見てソレッと声を掛けましたから、少し手順が狂つたのです。それでなければ四人とも坂本の室へ這入り込む処でしたが、書生が声をかけたゝめ、渡辺と桂は、早速に抜いて六畳で書生と斬り合ひ其間に私共は八畳の方でやつゝけたのです。書生は渡辺と桂に斬り立てられて、窓から屋根伝ひに逃げて仕舞ひました。
私は其晩前に御話し申しました佐々木只三郎の処へ参つて泊りまして、翌日市中の噂を聞くと仲々大変な騒ぎです。何でも、皆是れは新選組の仕業だらう、多分は紀州の三浦休太郎(安)が新選組と合体してやつたのだらうと云ふ風評です。それに其晩渡辺が六畳へ鞘を置て返つて来ましたが、その鞘が能く紀州の士の差したる鞘に似て居りましたから、愈々是れは三浦の仕業に違ひないと云ふ事でした。暫くたつと果して土佐の若い者が三浦の家を襲ひました。すると其時丁度近藤(勇)が其処に居合せて、一所になつて追ひ帰しましたので愈々斬つたのは三浦と近藤だと云ふ風説が高くなりました。
[現代語・意訳]
(今井信郎氏は現在静岡県に住む。本文は氏の談話筆記にして鶴城氏の寄稿によるものである)
(一)
東京諸新聞の徒労、三河御譜代、筑波山事件に加わる、
長州征伐、義勇兵募集の請願
御維新のとき、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、世間では近藤勇と土方歳三だと思っていますし、歴史にもそうありますので、その当時の人もほとんどがそうだと思っていましたが、実は私です。坂本も私のような者に斬られるより、近藤に斬られた方がよかったかも知れません。ハハハハハハ。
(中略)
(三)
11月15日、先斗町にて時間を過ごす、
同志あわせて4人、松代藩士と名のる
ご承知のように当時は世の中全体が非常に殺気立っておりまして、スワといえば抜く斬るという事情ですから、お互い十分警戒していて、なかなか隙などあるものではありません。私も、坂本という奴は「幕府のためにもならなければ、朝廷の御ためにもなるものでもない。ただ事を好んで京都を騒がせる悪漢ゆえ、ぜひ斬ってしまわなければならない」と思いましたが、さて誰が坂本でどこにいるのか少しもわかりませんので、これには非常に困りました。
しかし、幸いなことに、ふとしたことから蛸薬師にいる西谷(才谷梅太郎)というのが、坂本だということを確かめましたから、いよいよやってしまうことに決めました。
それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の与力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう1人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。
私はその頃は今出川におりましたが、夕方4人でそこに集まってまだ少し早いから、どこかで時間を過ごそうじゃないかと申して、先斗町へ行って10時過ぎまで酒をのんで、それからそろって出掛けました。渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆のすわった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(このとき、記者が「他にもう1人というその人は誰ですか」と聞いたところ、今井氏は「それはまだ生きている人です。そして、その人が自分が死ぬまでは、決して自分の名前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたので、今申し上げることはできません」と答え、しいてお願いしましたが、遂に口を開きませんでした。思いますに、現在ある一部の人たちの間で、坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官に出世したといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。今井氏にして語らず、その人物も語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にそのいくつかが闇に葬り去られることになり、惜しんでも惜しみきれないものである)
もうかなり寒くなっておりまして、表通りにも人の往来もなく、十五夜の月がキラキラと頭上の方で光っていましたが、4人とも十分用心して、10時を余程過ぎた時間に蛸薬師のその醤油屋(近江屋)へ到着しました。
そして、「私たちは松代藩のこれこれだが、坂本先生に火急お目にかかりたい」と申したところ、取次の者が「ハイ」と言って立って行きましたから、”こいつは締めた、いるに違いない、いさえすれば何とかして斬ってしまおう”と思っていますと、取次が「こちらへ」と案内しますので、後へついて2階へあがりました。
松代ですか。あの真田の藩です。坂本とは前から通じていたのです。4人ともいい加減の名前を言ったので、今でも覚えていません。とにかく、こちらへと言いますから、行ってみますと、2階は8畳と6畳の2間になっていました。
(四)
坂本さんお久しぶりです、横ほおを斬る、
京都の風評、脳天を三つ、
6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へはさんで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、さっそく機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。そこで、「ソレ」と手早く抜いて斬りつけました。最初、その横鬢(こめかみ)を抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。この二太刀で、流石の坂本も「ウン」と言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。
しかし、部屋に入る私のすぐ後ろには渡辺がついていましたが、渡辺が腰の鞘を立ててハシゴをあがりましたので、6畳にいた書生があやしいと見て、「ソレッ」と声を掛けましたので、少し手順が狂ったのです。そうでなければ、4人とも坂本の部屋へ入り込む計画でしたが、書生が騒いだため、渡辺と桂は、さっそく刀を抜いて6畳で書生たちと斬り合い、その間に私どもが8畳の方で坂本をやっつけたのです。書生は、渡辺と桂に斬り立てられて、窓から屋根伝いに逃げてしまいました。
私はその晩の前に相談していた佐々木只三郎のところに行って泊まり、翌日市中の噂を聞くと大変な騒ぎになっていました。なんでも「皆これは新選組の仕業であろう。多分、紀州の三浦休太郎が新選組と共謀してやったのだろう」という風評です。
それにその晩渡辺が6畳に置き忘れてきた鞘が、紀州藩士の差している鞘に似ていましたから、いよいよ「これは三浦の仕業に違いない」ということでした。しばらく経って、土佐の若い者が、三浦の家を襲撃しました。そのとき、ちょうど近藤勇が居合わせて、一緒になって追い返しましたので、いよいよ「斬ったのは三浦と近藤だ」という風評が高くなりました。
明治33年(1900年)の『近畿評論』5月号に発表された今井信郎の談話。坂本龍馬殺害の様子を聞いた結城礼一郎の記事を、岩田鶴城が無断寄稿して世間に広まった。
龍馬を斬ったのは、実は私です
「坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったのは、実は私です」。
この衝撃的な告白からはじまる今井信郎の談話は、もともと新聞の読みものとして掲載されたもので、記者の脚色が加えられていたと考えられます。
のちに記者・結城礼一郎自身もこの脚色をみとめており、とくに正体をあかさない共犯者Xの存在や、芝居がかった殺害場面の描写などが、その最たる例です。
こうした要素から、今井の実歴談は虚言とみなされ、「売名の徒」との批判をまねく一因となりました。しかしながら、龍馬殺害の経緯については、兵部省・刑部省の口書(取り調べの口述記録)と一致する点も多く、むしろ口書に記されなかった情報がふくまれている可能性があります。
今井信郎の実歴談と、兵部省・刑部省の口書を照合することで、事件の表面にあらわれた《事実》と、その背後にかくれた《真実》の輪郭をあきらかにすることができます。
まず、殺害の動機について、今井は幕府の命令にはふれず、「京都を騒がす悪漢ゆえ、ぜひ斬らねばならぬ」と、信念をかたく語っています。龍馬を悪漢と断じ、秩序をまもる立場を強調する語り口には、幕臣としての誇りがにじんでいます。
つぎに、殺害計画の経緯について、実歴談にある「蛸薬師の近江屋に潜伏していると知り、急きょ襲撃を決行した」というくだりは、口書でも同じように語られ、証言の整合性がうかがえます。
また、襲撃の戦術的な要素についても、証言はおおむね一致しています。
◉ 龍馬の所在を事前に探り出していたこと
◉ 襲撃者は4人だったこと
◉ 信州松代藩士を装って潜入したこと
一方、殺害場面では「龍馬のこめかみを一閃し、つづけて左右の腹を斬った」「中岡の脳天を三太刀で打ちすえた」といった劇的な表現が、実歴談には見られます。これらは口書にはあらわれていません。
また、実歴談では「まだ生きている共犯者がいる」と語りながら、その名をあかしていません。黙して語らなかったというより、そもそも実在しなかった可能性も否定できません。
さいごに、現場にのこされた鞘や、犯行後に町でささやかれた「新選組関与説」や「三浦休太郎の陰謀」といった風説についても、今井は回想のなかで言及しています。
これらの情報は、事件の真相を探るうえで、かねてより重要な手がかりとされてきました。そして、今井が語ったことを、事件当時の視点と、談話が世に出た明治の視点から読み解くことで、かれの真実がどこにあったのかを見きわめていきます。