見廻組・今井説 (三) 今井信郎口書
小笠原弥八郎の供述
今井信郎の供述を受け、刑部省は「御差図(指示)」が誰の命によるものだったのか、また指揮系統の全容ををあきらかにするため、佐々木只三郎の上役であった見廻役・小笠原弥八郎に事情聴取をおこないました。
当時、静岡に住んでいた小笠原はこれに応じ、静岡藩を通じて次のような回答文書を提出しました。
岩崎鏡川編『坂本龍馬関係文書』東京大学出版会、大正15年(1926年)
静岡藩
小笠原若松父隠居
小笠原忍斎
右忍斎儀京都見廻リ役在勤中、高知藩坂本龍馬不審之筋有之、去ル卯年十一月河原町三条下ル町ニ旅宿罷在候処、元見廻リ組今井信郎外五人え与頭佐々木唯三郎より召捕方申談、若手ニ余リ候ハヾ可討取旨をも其筋ヨリ差図之趣ヲ以申聞候ニ付、唯三郎、信郎其外之者共一同召捕ニ相越候由、信郎申立候ニ付右差図ハ忍斎ヨリ申付候儀ニ可有之間其節之手続委細書付、可申上旨御書付ヲ以御達ニ付、静岡表へ申遣候処、忍斎相糺、同人ヨリ別紙御請書差出候ニ付、則差上申候。尤権大参事方え忍斎呼寄説諭ヲ以入念取調候処、坂本龍馬召捕方之儀ニ不限、京都見廻リ組勤向之義ハ佐々木唯三郎全権二而、百事委任取扱候義故、御尋之次第更ニ心付不申候旨申立、事実相違も無之相聞候間、此段御聞添之程相願候趣、静岡表ヨリ申越候間、別紙相添此段申上候。已上
静岡藩
公用人
四月 杉山秀太郎
刑部省御役所 小田又蔵別紙御書付之趣奉得其意候。坂本龍馬召捕方及差図候儀ハ勿論、其比之始末一切相心得不申候。誠ニ以驚入候次第ニ御座候。右は私儀去ル卯年九月中より病気二而、引続同年十二月中願之通退役相成候儀ニ付、其比之次第相心得不申候段は御明察被下候様奉仰望候。乍去退役以前配下筋之者ニ右様之所為有之儀ヲ心付不申段無念之至、奉恐入候。此段申上候。
四月 小笠原忍斎
[現代語・意訳]
静岡藩
小笠原若松父であり隠居
小笠原忍斎
忍斎が京都見廻役に在勤していた当時、高知藩士・坂本龍馬に不審な情報があり、去る慶応3年11月、河原町三条下ル町家に旅宿していた龍馬について、見廻組与頭・佐々木唯三郎から今井信郎ら5名に対し、「召し捕ること、もし手に余るときは討ち取ってもよい」との指示があり、これは上層部からの命令であると伝えられました。そのため、佐々木、今井ら一同は召し捕りに出動した、との申し立てが今井信郎からありました。
これを受け、右の命令(差図)が忍斎から出されたものか確認するため、当時の経緯について詳しく書面で報告するよう、静岡藩へ照会しました。静岡藩が忍斎に事情をただし、本人から別紙の御請書が提出されたので、これを添えて差し出します。
とくに権大参事の命により、忍斎を呼び寄せ、説諭のうえで入念に取り調べたところ、「坂本龍馬召し捕りの件に限らず、京都見廻組の職務は、すべて佐々木只三郎に全権を委任してあり、百事を彼に一任していたため、命令の出所について私自身まったく心当たりがない」との申述がありました。
事実に相違がないことも確認されましたので、この旨を御参考までに申し添えます。この旨、静岡藩から正式に申し送られてまいりましたので、別紙を添えてこの件をご報告申し上げます。以上。
静岡藩
四月 公用人 杉山秀太郎
刑部省御役所 小田又蔵殿
(小笠原忍斎請書)
別紙ご指示の趣旨、承知いたしました。坂本龍馬召捕に関する指示についてはもちろんのこと、それに関連する当時の事情についても、私は一切承知しておりませんでした。誠に驚き入るばかりでございます。
そもそも、私自身は慶応3年の9月頃から病気を患い、同年12月には願い出て退役が認められた次第であり、その頃の事情を私が心得ておりませんこと、どうかご賢察くださいますようお願い申し上げます。
もっとも、退役以前に配下の者がこのような行動に及んでいたことを知らなかったのは、まことに無念であり、恐れ入るばかりです。
以上、申し上げます。
四月 小笠原忍斎
小笠原は、見廻役として見廻組の上位にあたる立場にありながら、「坂本龍馬の召し捕りに限らず、見廻組の一切の職務は与頭・佐々木只三郎に全権を委任しており、自身は関知していなかった」とのべ、命令の出所についての責任を否定しました。
さらに小笠原は、慶応3年9月から病にかかり、同年12月には正式に退役していたことを理由に、「事件当時の状況については一切承知していなかった」とくりかえし主張し、龍馬殺害への関与をはっきりと否定しました。
今井信郎への判決
兵部省と刑部省による取り調べは半年以上にもおよび、明治3年(1870年)9月20日、今井信郎に対して近江屋事件に関する判決が言い渡されました。
岩崎鏡川『坂本龍馬関係文書』 東京大学出版会、大正15年(1926年)
申 渡
庚午九月二十日 静岡藩
宮崎少判事達 元京師見廻組
小嶋中解部
岡部少判事 扱 今井信郎
其方儀、京都見廻組在勤中、与頭佐々木唯三郎差図を受、同組のものと共に、高知藩坂本龍馬捕縛に罷越討果候節、手を下さずと雖も、右事件に関係致し、加之其後及脱走、屡々官軍に抗撃遂降伏いたし候とは乍申、右始末不届に付屹度可処厳科処、先般被仰出之御趣意に基き、寛典を以、禁錮申付る。
但、静岡藩え引渡遣す。
右申渡趣受書申付る。
静岡藩士族
高倉清太郎
右之通申渡、信郎引渡候間得其意
庚午九月廿日
[現代語・意訳]
その方は、京都見廻組在勤中、与頭・佐々木只三郎の差図を受け、同組の者とともに、高知藩坂本龍馬の捕縛に向かい討ち果たしたとき、手を下さなかったとはいえ事件に関係した。加えてその後脱走して官軍に抵抗し、ついに降伏した。
以上の不始末については、厳科に処するべきところではあるが、先般仰せ出された御趣意に基づき、寛典をもって禁錮を申しつける。ただし、静岡藩に引き渡す。
静岡藩士族
高倉清太郎
右の通り申し渡す。信郎引き渡し候間その意を得よ。
庚午九月廿日
今井には「坂本龍馬殺害への関与および官軍への抗戦の罪により、禁錮を申し渡す」との判決が下されましたが、その内容は静岡藩における禁錮処分という、とても軽いものでした。
このような判決の裏には、今井と新政府のあいだで何か密約があったのではないか、という見方も一部にあります。すなわち「坂本龍馬殺害の罪を今井がひとりで引き受け、その代償として政府が刑を軽減したのではないか」という説です。
しかし、この説を裏づける史料は確認されておらず、実際には「先般仰せ出された御趣意」にもとづく判決だったと考えられます。ここでいう《御趣意》とは、判決のおよそ3ヶ月前、明治3年(1870年)6月8日付で明治政府が各府藩県に通達した赦免布告を指し、国事犯を寛大に処遇するという方針がはっきり示されていました。(『忠義公史料』)
『忠義公史料』六、692号
六九二 国事犯罪者ヲ寛典ニ処セシム
六月八日
朝廷ニ於テハ、国事犯罪者ヲ寛典ニ処セシム、
◯六月八日 癸卯
府藩県へ御沙汰書写
凡国事ニ係リ、順逆ヲ誤リ、犯罪ニ至リ、府藩県ニ於
テ咎申付有之候者、並未タ処分ヲ経ザル分トモ、去巳
年九月被 仰出候御趣意ニ基キ、罪之軽重ニ応シ、其
管轄府藩県ニ於テ、寛典之処置可致旨被 仰出候事、
但禁鋼・預ケ等 朝廷ヨリ御処分相成居候者、且死
流難宥見込之者ハ、可伺出候事、
刑部省
別紙之通、府藩県へ 御沙汰ニ相成候条、為心得相違
候事、
[現代語・意訳]
第六九二号 国事犯罪者を寛典に処する件
明治3年(1870年)6月8日
朝廷では、国事犯に該当する者を寛大な処置とする方針を決定した。これを6月8日付で布告し、府藩県へ通達が下された。
国事に関与し、時勢を誤り罪に至った者で、すでに各府藩県において処罰された者、または未処分の者を含め、その取り扱いを次のとおり定める。
一昨年(明治元年)9月に出された御趣意に基づき、その罪の軽重に応じて、各府藩県の判断において寛典(寛大な処分)をもって取り計らうよう命じる。
ただし、すでに朝廷から禁錮や拘留などの処分が下されている者や、死罪や流罪など重罪の恩赦が見込まれる者については、事前に伺いを立てること。
この件については、別紙の通り、各府藩県へ通達されたので、取扱いに誤りなきよう心得ること。
刑部省
さらにさかのぼると、明治2年(1869年)7月11日には、『太政官日誌』において、旧幕府体制から維新政府への政権交代にともなう罪責の取りあつかいについて、「個人の私利私怨によらない旧幕府時代の行為には寛大な処置をあたえる。公務は処罰の対象外とする」という原則を布告していました。
『太政官日誌』明治2年82号
明治己巳 自七月十一日 至二十一日
東京城第四十五
○七月十一日〈辛巳〉
【騒擾中ノ罪責処断ノ事】
御布告書写
昨年来天下多事、未タ一定ノ御法律、相立サル処ヨリ、自然不束ノ所業致シ候者、往々有之、今日ニ至リ、其法ヲ正サレ候得ハ、罪責不可免、素ヨリ法ハ枉ヘカラス候エ共、其所業一己ノ私利私怨ニ渉ラスシテ、騒擾中無拠情実差迫リシヨリ、法ヲ犯スニ立至リ候類ハ御寛典ニ被処候間、能々事実取糾シ、処分可致事
[現代語・意訳]
昨年以降、天下は騒然としており、まだ一定の法律が整っていなかったため、規律に反する行動に及んだ者も少なくなかった。今日に至って、法律が正しく整えられた以上、法に反する行動は責任を問うべきであり、法律を曲げてはならないのは当然である。しかしながら、これらの行動が私的な利益や恨みによるものではなく、騒乱の中で避けがたい事情によってやむを得ず法に違反したと見なされる場合には、寛大な措置をもって処理することとする。
以上の方針に基づき、事実をよく調べたうえで、適切に処分するように。
つまり、政変にともなう旧幕府の公務にもとづく行為については、原則として処罰の対象外とする、という方針がはっきり打ち出されたことになります。
この政府方針に照らすと、「幕府の命により職務をもって坂本龍馬を捕縛にむかったが、抵抗されたため、やむを得ずこれを討ち果たした」とする今井の主張はみとめられ、京都見廻組による龍馬の殺害は、旧幕府の警察権にもとづく正当な行為と判断されたことになります。
判決のあと、今井信郎は静岡藩に引きわたされ、謹慎生活に入りました。けれども、明治5年(1872年)1月には特赦をうけて、まもなく自由の身となります。その後は静岡県に奉職し、地方の行政にかかわりながら、静かに生涯をおくりました。
一方、新選組隊士による伊東甲子太郎の殺害は、新選組の内部抗争、つまり私闘と見なされました。そのため、大石鍬次郎には斬首、相馬肇には伊豆新島への終身流罪(明治5年10月に赦免)、横倉甚五郎は獄中死と、それぞれ重い処罰が科されています。
残るギモン
こうして坂本龍馬暗殺事件は、ひとまず決着を見たかたちとなりますが、いくつかのギモンが依然として残されています。
そのひとつが、裁判記録のなかに中岡慎太郎の名がまったく見られないという点です。
当時の中岡は陸援隊隊長をつとめ、土佐藩における地位は、海援隊隊長の龍馬と並ぶものでした。それほどの人物が命を落としたにもかかわらず、裁判記録では従僕・藤吉と同列のあつかいにすぎず、名前すら一度も記されていないのです。
たとえ標的が龍馬ひとりだったとしても、中岡も同じ現場で命を落とした人物です。それなのに、まるで中岡の存在がなかったかのように扱われているのは、きわめて不自然といわざるをえません。
さらに、今井信郎に関する裁判記録そのものも、一般に公表されることはありませんでした。
裁判記録は、刑部省(のち司法省)が編纂した「断刑伺書」の明治三年の部におさめられましたが、その内容が世間に知られることはなく、関係者のあいだでも共有されていませんでした。
この当時、刑部大輔(司法大臣)の職にあった佐々木高行は、土佐藩上士出身であり、後藤象二郎とともに大政奉還を推進した中心人物のひとりとして、坂本龍馬とも親交の深かったことでも知られています。
坂本龍馬と佐々木高行は志を同じくする仲間であり、龍馬は兄・権平への手紙の中で高行を「天下の苦楽を共にする人物」と称え、「佐々木先生」「佐々木大将軍」といった敬称を用いて深い信頼を寄せていた。慶応3年には龍馬の紹介で高行が長州の桂小五郎と会談するなど、政治的な連携にも協力している。
ところが、佐々木高行はこの裁判記録の存在を知っていたはずにもかかわらず、真相解明に奔走していたかつての同志たちに、それを知らせた形跡は見られません。
このため、谷干城(土佐藩士、陸軍中将)や田中光顕(土佐藩士、陸援隊士)らのように、事件に深くかかわった土佐出身者のなかにも、裁判記録の存在を知らないまま、事件を新選組の犯行と結論づけた者もすくなくありませんでした。
こうした経緯から、事件の真相は長らく曖昧なままとなり、龍馬暗殺の犯人像をめぐってさまざまな憶測や説が生まれる土壌になったのです。