18. 結成! 土佐勤王党
土佐の墨龍
万延元年(1860年)7月、土佐藩の白札格で、下士層の領袖であった武市半平太は、門弟の島村外内、岡田以蔵、久松喜代馬を引きつれ、中国・九州方面への廻国修行に出発した。
このとき、坂本龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまいに」(『維新土佐勤王史』)と評したと伝わるが、武市の真のねらいは、西国の情勢を視察し、各藩の尊王攘夷派の志士たちと交わりを結ぶことにあった。尊王攘夷論が各地の志士のあいだで勢いを増すなか、ついに「土佐の墨龍」が動き出したのである。
西国遊歴を終えた武市はいったん土佐へ戻り、文久元年(1861年)春、同志・大石弥太郎の求めに応じて江戸へ向かった。大石はすでに諸藩の志士たちとの関係を築いており、武市をかれらに引きあわせることで、土佐の勤王運動を時勢から立ち遅れさせまいとしていた。
江戸に入った武市はまもなく、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作、薩摩の樺山三円、水戸の岩間金平らとの会合を通じて、政治情勢や尊攘運動の方向性について意見を交わした。そうした議論のなかで大きな議題のひとつとなったのが、皇女・和宮の将軍家降嫁問題である。
和宮をとりもどせ!!
「和宮降嫁」とは、孝明天皇の妹である和宮親子内親王が、第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ政略結婚をさす。その背景には、幕府が朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約などを結び、朝幕関係が大きく悪化していた事情があった。
こうしたなかで幕府は、皇女との婚姻によって朝廷との関係修復をはかろうとした。さらに天皇の権威を後ろ楯として尊王攘夷運動をおさえ、動揺する幕府の威信と支配体制を立て直そうとしたのである。これは、朝廷と幕府の結びつきを強めようとする「公武合体策」の象徴でもあった。
孝明天皇は当初、和宮の降嫁に難色を示したが、幕府が攘夷の実行を約束したことなどを条件に、万延元年(1860年)10月、これを勅許したのである。
しかし、和宮降嫁は、かえって尊王攘夷派の激しい反発を招くことになる。尊攘派のあいだでは、「公武合体はあくまで名目にすぎず、実際には和宮を人質のようにして、幕府が朝廷を意のままに操ろうとするものだ」との疑念が広がり、幕府への不信感はいっそう強まっていった。
そのため一部の尊攘派志士たちは、京都で義兵を挙げ、江戸へ向かう和宮の輿を途中で奪い返す一方、江戸では降嫁推進の中心人物である老中・安藤信正ら幕閣を討つという強硬策をとなえた。和宮降嫁への憤激から、この強硬論に同調する者も多く、実力行使も辞さない空気が諸藩志士のあいだに広がっていた。
だが武市半平太は、幕府への憤りをかれらと同じくしながらも、血気にはやって事を起こすことに反対する。武市は「幕府の心術憎むべし」としながらも、降嫁はすでに朝廷によって許された以上、実力行使に出ても志を遂げることは難しく、かえって「乱賊」の汚名を免れないと説いた。それよりも各自が国もとへ帰り、藩論を尊王攘夷へと動かし、その実現をはかるべきだ、それが武市の示した道であった(瑞山会編『維新土佐勤王史』)。
久坂玄瑞らは武市の意見に賛同し、議論はこの方針に定まったと伝えられる。血気にはやる強硬論を退け、まず藩そのものを動かすという武市の考えは、この一件を通じて諸藩の志士たちにも受け入れられていった。武市の声望はいっそう高まり、やがてその思いを胸に土佐へ帰国する。
立てよ郷士!
武市半平太は、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らとの会合を通じて、諸藩がそれぞれ藩論を勤王へ導き、連携して幕府に攘夷の実行を迫っていく必要を強く意識するようになる。こうして武市は、土佐に一大勤王運動を巻きおこす決意を固めた。
その第一歩として、文久元年(1861年)8月、武市は江戸にいた同志たちと「土佐勤王党」を結成した。結成当初の参加者は、武市を筆頭に大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬、門田為之助、柳井健次、河野万寿弥、小笠原保馬の8名。盟約文は大石弥太郎が起草し、武市が清書したとされ、一同は血判をもって同志としての結束を誓った。
『土佐勤王党盟約書』武市瑞山関係文書第一
盟曰
堂々たる神州戎狄の辱しめを受け、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治れる御代の因循委惰という俗に習いて、独りも此心を振い挙て皇国の禍を攘う人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ。斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。
況むや皇国の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。彼の大和魂を奮い起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。左れば此中に私もて何にかくに争うものあらば、神の怒り罪し給うをもまたで、人々寄つどいて腹かき切らせんと、おのれ/\が名を書きしるしおさめ置ぬ。
文久元年辛酉八月
武市半平太 小楯
大石弥太郎 元敬
島村衛吉 重険
間崎哲馬 則弘
門田為之助 穀
柳井健次 友政
河野万寿弥 通明
小笠原保馬 正実
坂本龍馬 直陰
(以下連署血判)
[現代語・意訳]
盟約
神聖なるわが国は、いまや異国の辱めを受け、古来伝わる大和魂も絶えようとしていると、帝は深くお嘆きである。しかしながら、長き太平の世に慣れた人びとは惰性に流され、この心を奮いおこして皇国の禍を払いのけようとする者は一人もいない。
おそれ多くも我が主君(山内容堂)は早くからこの国難を憂い、幕府の要人に強く訴えてきたが、かえって罪を得て謹慎の身となった。これほど尊い御志をお持ちであるのに、なぜ罪を受けねばならないのか。君主が辱めを受けたときは、臣下は死を覚悟してその恥をそそぐべきである。
ましてや、いま皇国が滅びの瀬戸際にあるこのときに、どうして傍観できようか。われらは大和魂を奮いおこし、異姓兄弟の契りを結び、一点の私心を交えることなく力をあわせ、国家再興の一助となる覚悟である。
もし錦の御旗が一たび翻るときは、団結して水火をも踏み越えることを、ここに神明に誓う。上は帝の御心を安んじ奉り、また我が主君の御志を継ぎ、下は万民の憂患を拭い去ろうとするものである。この中にもし私心を抱いて争う者があれば、神罰を待つまでもなく、同志が集まってその腹を切らせるであろう。ここに各人が名を書き記し、誓約のしるしとする。
文久元年辛酉八月
武市半平太 小楯
大石弥太郎 元敬
島村衛吉 重険
間崎哲馬 則弘
門田為之助 穀
柳井健次 友政
河野万寿弥 通明
小笠原保馬 正実
坂本龍馬 直陰
(以下連署血判)

演説する武市半平太
翌月、土佐へ帰国した武市は同志の糾合につとめ、土佐勤王党は急速に党勢を広げていった。現存する盟約書には192名が名を連ねており、藩内でも大きな存在感をもつようになる。坂本龍馬は、江戸で署名した8名に続く第9番目として名を連ね、土佐では最初の加盟者となった。
加盟者の多くは、郷士などの下士層や庄屋層であった。一方、上士層にも小南五郎右衛門、佐々木三四郎、谷干城らのように勤王党に理解を示し、直接加盟しないまま協力した者がいたが、実際に盟約へ名を連ねた上士は、宮川助五郎ら少数にとどまった。
浮浪剣客の徒だからさ
武市半平太は、この勤王党の勢いをチカラとして「一藩勤王」の実現を志した。それは、藩士が個々に脱藩して尊王攘夷に奔走するのではなく、藩そのものを勤王へ統一し、藩主を動かして土佐藩の針路そのものを変えようとするものであった。
そして武市は、藩政を掌握していた参政・吉田東洋に対し、薩摩・長州に後れを取らぬよう、土佐藩も尊王攘夷へ踏み出すべきだと強く訴えた。
しかし東洋は、山内家の由緒を根拠に反論した。山内家は、藩祖・山内一豊が関ヶ原の戦いで徳川方として戦功を立て、その後、土佐一国を与えられた家である。「関ヶ原以来、幕府とは深い由緒もある。薩長の外様とは同一に心得られぬ」として、幕府との関係を重んずる姿勢を崩さなかった。
さらに東洋は、薩摩・長州から正式な申し越しもない以上、こうした動きは「浮浪剣客の徒」が事を誇大にし、天下を動揺させようとしているにすぎないと切り捨てた。武市の「一藩勤王」も、現実を知らぬ書生論として退けられたのである。こうして武市と東洋の対立は、次第に決定的なものとなっていった。
佐々木高行『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』国晃館、大正4年(1915年)
武市は藩吏のいふ事が、要領を得なかつたので、一日吉田に面会して、直接其の所説を申逑べると吉田は、「抑も御当家は、関ヶ原役以来、幕府とは深い由緒もあること故、薩長の外様とは同一に心得られぬ。又左様な一大事の事なれば、薩長何れよりか申越さるべきに、その事もない。畢竟、浮浪剣客の徒が、事を誇大にし、天下動揺の端を啓かんとするものとしか思はれぬ。さう熱心に思ふなら、九州探索を申付けるから、彼地の様子を調べて来てはどうか」と云ふと、武市は「其の事なら昨年探聞して居るから、今更視察する必要も御座らぬ。また此の儘何の顔を以てか、両藩士に見ゆることが出来やうぞ」と、頗る決心の体で、之を辞したさうだ。
[現代語・意訳]
武市半平太は、藩吏の言うことがどうにも要領を得なかったので、ある日、吉田東洋に面会し、直接その持論を述べた。すると吉田は、次のように切り返した。
「そもそも御当家は、関ヶ原以来、幕府と深い由緒をもつ家柄である。薩摩・長州のごとき外様と同一に論ずべきではない。ことがそのような大事であるならば、薩長いずれからなりとも申し越しがあってよいはずだが、その沙汰もない。結局のところ、浮浪の剣客どもが事を誇大に唱え立て、天下を動揺させる端を開こうとしているだけのことであろう。そこまで言うなら、九州探索を申し付けるゆえ、彼地の情勢を見届けてくるがよい」
これに対して武市は、「そのことなら、昨年すでに内々に情勢を探っておりますから、今さら視察する必要はございません。ましてこのまま、どのような顔をして両藩士にお会いできましょうか」そう言い放つと、武市は憤然たる面持ちで、その命を辞退したという。