17. 安政のテロル
全員大罪人
天皇が幕府を介さず水戸藩へ直接勅書を下したことは、幕府の成立以来、極めて異例の出来事であった。これは幕府の権威と統治秩序を大きく揺るがすものであり、強い危機感を抱いた大老・井伊直弼は、背後に一橋派や尊攘派の策動があったとみて、かれらの排除に乗り出した。
安政5年(1858年)9月、近藤茂左衛門と梅田雲浜が相次いで逮捕された。これを皮切りに幕府は反対派の摘発を本格化させ、のちに「安政の大獄」と呼ばれる大規模な弾圧がはじまる。
京都では水戸藩士や尊攘派志士、公家の家臣たちが次々に捕えられ、順次江戸へ護送された。一方、江戸でも取り締まりはいっそう厳しさを増し、福井藩士の橋本左内、儒者の頼三樹三郎、長州藩士の吉田松陰らも逮捕・投獄された。
さらに、その余波は地方にもおよび、清水寺成就院の僧・月照は、西郷吉之助とともに鹿児島へ逃れたのち、錦江湾へ入水し、月照は死亡した。
朝廷にもその矛先は向けられ、青蓮院宮尊融入道親王(のちの朝彦親王)は謹慎、のちに隠居・永蟄居を命じられた。また、前関白の鷹司政通、左大臣の近衛忠煕、右大臣の鷹司輔煕、前内大臣の三条実万らにも処分がおよび、このうち近衛忠煕と鷹司輔煕には辞官が命じられ、4人はいずれも落飾(髪を剃り仏門に入る)・謹慎となった。
そのほかの公家たちにも謹慎や差控などの処分がおよび、朝廷は幕府の強圧の前に沈黙を余儀なくされた。
諸侯のなかでは、水戸前藩主の徳川斉昭が永蟄居、水戸藩主の徳川慶篤が登城差控、一橋慶喜が隠居・謹慎となり、さらに宇和島藩主の伊達宗城は隠居を命じられ、土佐藩主の山内豊信も隠居・謹慎となる。将軍継嗣問題で直弼に対立した一橋派の有力諸侯が、ここで一斉に政局の表舞台から退けられたのである。
また幕臣のうちでも、一橋派にくみした作事奉行の岩瀬忠震、軍艦奉行の永井尚志、勘定奉行をつとめた川路聖謨らが、相次いで左遷や罷免、隠居・差控などの処分を受けた。
藩士や志士たちへの処罰は苛烈を極め、水戸藩家老の安島帯刀は切腹、奥右筆頭取の茅根伊予之介と京都留守居の鵜飼吉左衛門は死罪、同藩士の鵜飼幸吉は獄門に処せられた。さらに福井藩士の橋本左内、儒者の頼三樹三郎、長州藩士の吉田松陰らも次々に処刑され、処罰者は100人を超える規模に達した。
桜田門外ノ変
大老・井伊直弼は、将軍継嗣問題や違勅調印をめぐって一橋派や公家、尊攘派志士らと対立し、これらの勢力を徹底的に排除することで、動揺する幕府権力の立て直しをはかった。しかし、その専断的な手法は各方面の強い反発を招き、幕政に対する不信と怨恨を広げていった。
こうした緊迫した状況のなか、井伊を「奸賊」とみなす水戸藩の尊攘派と薩摩藩の急進派とのあいだで、密かに討奸の計画が進められた。かれらは、勅意を奉じて奸臣を除くという認識を共有し、井伊の専断を正す「斬奸」の挙として行動を決意する。
やがて万延元年(1860年)3月3日、上巳の節句の朝、雪の降りしきる江戸城桜田門外で、水戸・薩摩両藩の浪士18名が登城途中の彦根藩行列を襲撃し、大老・井伊直弼を討ち果たした。

桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図
白昼堂々と、幕府の最高実力者が暗殺された衝撃は、江戸中を震撼させた。事件後、襲撃者の多くは自刃し、あるいは捕縛・処刑されたが、これまで武士や庶民のあいだに根強くあった「公儀への畏怖」は大きく揺らぎ、時代の空気は一変した。
弾圧のもとで息をひそめていた尊攘派の動きは再び活発となり、やがて京都をはじめ各地で「天誅」を掲げた暗殺の嵐が吹き荒れる。幕威は急速に失われ、桜田門外の変は、二百数十年にわたる泰平の秩序に深い亀裂を刻む、幕末動乱の大きな画期となった。
同志諸君よ、分を尽くせ
桜田門外の変の知らせが土佐に届くと、井伊直弼の殺害を「奸賊を討ち果たした快挙」と歓喜する者がある一方で、浪士たちの行動を「国法を乱す暴挙」として非難する者もあり、郷士のなかでもその是非をめぐって議論が交わされた。
このとき坂本龍馬は、「諸君、何をそんなに騒ぐことがあるか。かれらは臣下としてのつとめを果たしただけのことだ。僕もまた、後日事に当たるときには、同じように働くつもりだ」と語ったという。
この言葉を聞いた池内蔵太や河野万寿弥ら郷士仲間たちは、龍馬の胸中に大きな志が秘められていることを、はじめて知ったと伝えられる。
瑞山会編『維新土佐勤王史』富山房、大正1年(1912年)
而して坂本龍馬後れ至るや、其の水戸人と交りあるを以て、事の顛末を質すに、龍馬略ぼ知れる所を語り、惣ち大言して曰く、「諸君何ぞ徒らに憤慨するや、是れ臣下の分を尽せるのみ。我輩他日事に当る亦此の如きを期せん」と。池(内蔵太)、河野(万寿弥)等始て龍馬の大志を抱くを知れりと云う。