4. 龍馬暗殺
コナクソ!!
午後9時をすぎたころ、近江屋の表口に人の気配があり、訪問をつげる声がありました。2階にいた坂本龍馬の従僕・藤吉が階下へおりて応対に出ると、そこには武士が一人立っています。
その武士は、「信州松代(あるいは十津川郷)の者ですが、才谷先生(龍馬の変名)が、ご在宅ならばお目にかかりたい」とつげ、名刺を差し出しました。
藤吉は疑うことなく名刺を受け取ると、2階にいる龍馬に取り次ぐため階段をあがっていきました。その背をむけた隙に、3人の刺客が屋内へと侵入します。
ひとりは藤吉のあとを追い、階段をあがりきったところで背後から斬りつけました。藤吉は必死に抵抗しますが、数太刀あびせられその場に斬りたおされました。
そのころ、2階奥の間では、龍馬と中岡慎太郎が火鉢をはさんで談笑していました。突如、外から大きな物音が聞こえてきます。龍馬は誰かがふざけて騒いでいるのだと思い、「ホタエナ!(騒ぐな。土佐の方言)」と一喝。
その瞬間、ふすまが激しく開き、刺客が部屋に飛び込んできました。ひとりは「コナクソ!!(この野郎。四国の方言)」とさけびながら中岡の後頭部を斬りつけ、もうひとりは龍馬の前額部を鋭く横に斬りはらいました。
「坂本と中岡の死」『坂本龍馬関係文書 第二』の中に「店頭にて若者共が戯れ居るならむと思ひ「ホタエナ」と一聲叱咤せり」とある。
『谷干城遺稿』(島内登志衛編、明治45年)の中に「そして置いて矢庭にコナクソと云つて斬つた」とある。
もう、駄目だ
襲撃のとき、龍馬と中岡の手もとに刀はありませんでした。龍馬の愛刀「陸奥守吉行」は床の間に、中岡はの刀は屏風の後ろに置かれていたのです。
龍馬は刀を取ろうと身をひねり、背後に手をのばしました。しかし刺客はその動きを見のがさず、二の太刀が龍馬の右肩先から袈裟がけに背中を走りました。
それでも龍馬は刀をつかんで立ちあがると、せまりくる刺客の三の太刀を鞘のまま受け止めましたが、刺客の斬撃は凄まじく、刀身は鞘越しに3寸(約9cm)斜めにけずり、その余勢をもって龍馬の前額部を鉢巻なりに深く斬り裂きました。
この攻撃で脳漿が吹き出し、龍馬は力尽きてその場に崩れ落ちました。
中岡も刀を取る余裕はなく、腰にさしていた短刀で応戦しようとしましたが、最初の一撃で深手を負い、思うように体を動かすことができません。刺客に左右の手足を斬られ、ついに昏倒しました。このとき、右手首は皮一枚でつながっている状態だったといいます。
刺客のひとりが、中岡の臀部を骨に達するほど深く斬りつけ、その死を確かめると、「もうよい、もうよい」と言葉をのこして立ち去りました。中岡はこの激痛で意識を取り戻しましたが、そのまま死んだフリをしてやり過ごしました。
ほどなくして龍馬が意識を回復し、刀を支えに身をおこしました。刃先を行灯の火にかざし、傷口を確かめながら「残念、残念」と口にし、中岡に向かって「慎太、どうした。手が利くか」と問いかけました。「利く」と中岡は応じます。
龍馬はその言葉に力を得たのか、行灯を片手に隣の6畳間まではって移動し、明り取りの手すりから階下の家人にむかって「新助、医者をよべ」とさけびました。しかしその声も力なく、「慎太、おれは脳をやられている。もう、駄目だ」と言いのこし、絶命しました。
中岡は痛みに耐えながら裏の物干し場まではい出て、近江屋の家人をよびましたが返事はありません。さらに北隣の屋上まで進みましたが、失血によるはげしい悪寒と脱力が襲い、ふたたび意識をうしないました。

龍馬遭難時の佩刀と拳銃
惨劇のあと
そのころ近江屋の1階には、主人・井口新助夫婦とふたりの子どもの4人がいました。突然、2階からけたたましい物音がひびき、異変を感じとった新助は、急ぎ土佐藩邸に知らせようとしました。藩邸は、近江屋のむかい、道を一つはさんだ場所にあります。
しかし、表口には見張りとおもわれる男が立っていたため、新助はやむなく引きかえします。そして妻子の頭に布団をかぶせて押さえ、「声を立ててはいかん。静かにせい」とささやき、息をひそめてじっとしていました。
しばらくすると、物音ひとつしない静けさがもどってきました。新助は様子をうかがいながら裏口から裏寺町へぬけ出し、蛸薬師の図子(細道)を通って、土佐藩邸に異変を知らせました。藩邸からは、さっそく下横目の島田庄作が近江屋へと駆けつけます。
島田は刀を抜き、屋内の様子をうかがっていると、そこへ軍鶏肉を手にした峰吉がもどってきました。おどろく峰吉に島田は、「うむ、峰吉か、静かにせい。いま龍馬がやられた。賊はまだ2階にいる。出てきたら斬ろうと思って待っているのじゃ」と告げました。
しかし、峰吉は本気にせず、「冗談言っちゃいけない。石川(中岡の変名)さんも来ています。おふたりに頼まれて軍鶏を買ってきたところです」と言って、気にもとめず屋内にはいっていきました。家の中をひと回りしてから、2階へとつづく階段をあがろうとしたとき、階上から血がたらたらと流れ落ちていることに気づきます。
峰吉は急いで階段をかけあがると、上り口には藤吉が横倒しになって苦しんでいます。さらに奥の部屋には、龍馬が血の海の中にたおれ、隣家の屋根へとのがれた中岡が、そこで苦悶しているすがたが見えました。
「賊はもうひとりもいない。早くあがって来い!」峰吉が大声で助けをよぶと、島田と新助が2階にあがってきて、力をあわせて中岡を座敷へと運びいれました。

事件現場