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15. 結成! 土佐勤王党

土佐の墨龍

万延元年(1860年)7月、土佐藩下士層の領袖である武市半平太は、門弟の島村外内、岡田以蔵、久松喜代馬を引きつれて、中国・九州方面への廻国修行に出発しました。

このとき、坂本龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまいに」(『維新土佐勤王史』)と評したと伝わりますが、武市の真のねらいは、西国の情勢を視察し、各藩の尊王攘夷派志士たちと交流を深めることにありました。尊攘思想が世を席巻するなか、ついに「土佐の墨龍」が動き出したのです。

そして、西国視察を終えた武市は、同志・大石弥太郎のもとめに応じ、文久元年(1861年)春、江戸へと向かいました。大石はすでに諸藩の志士たちとの関係を築いており、武市をかれらに引きあわせることで、土佐の勤王運動を時勢に遅れまいと考えたのです。

江戸に入った武市はまもなく、長州の久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作、薩摩の樺山三円、水戸の岩間金平らと相次いで会談し、政治情勢や尊攘運動の方向性について意見を交わしました。そのなかで大きな議題のひとつとなったのが、皇女・和宮の将軍家降嫁問題でした。

和宮
親子内親王(和宮)

和宮をとりもどせ!!

「和宮降嫁」とは、孝明天皇の妹である和宮親子内親王が、第14代将軍・徳川家茂に嫁いだ政略結婚をさします。この婚姻は幕府主導で進められたものであり、その背景には、幕府が朝廷の勅許を得ないまま外国と通商条約を締結し、朝幕関係が著しく悪化していたという事情がありました。

こうした状況のもと、幕府は皇女との婚姻によって朝廷との関係修復をはかり、さらに天皇の権威を後ろ楯とすることによって反幕的な世論をおさえ、動揺する幕府体制の再建に踏み出そうとしていました。

しかし、和宮の降嫁は、かえって尊王攘夷派のはげしい反発をまねくことになります。尊攘派のあいだでは、「降嫁はあくまで名目にすぎず、実際には和宮を人質として幕府が朝廷を意のままに操ろうとするものだ」との疑念が広まり、強い不信感が募っていきました。

その結果、一部の尊攘派志士は、和宮の江戸下向にさいし、東海道の薩埵峠で輿を襲撃して奪還を試みるという計画を密かに立案しました。あわせて、その計画と連動するかたちで、江戸では降嫁の推進役であった老中・安藤信正を暗殺しようとする動きも画策されていたのです。

和宮降嫁に対して強い疑念を抱く久坂玄瑞は、この襲撃計画に一定の理解を示しましたが、武市は無謀な実力行使に異議をとなえ、むしろ幕府に対抗しうる勤王勢力を諸藩で結集し、正統な政治手段をもって攘夷の実現をせまるべきだと説きました。

「幕府のやり方はもちろん憎むべきだが、降嫁はすでに勅許された以上、それを妨げるのは正道ではない。今、諸君がただ血気にはやって行動をおこしても、成功はおぼつかず、同志を無為に死なせるだけだ。それよりも、我われはひとまず国もとに帰り、自藩の意向を勤王に統一し、藩主を奉じて上洛し、老中の言質にもとづいて正々堂々と幕府に攘夷の実行をせまろうではないか。これこそが正道であり、天下の人びとを奮起させ、尊攘の目的を成し遂げる道である」(瑞山会編『維新土佐勤王史』)

武市の意見は筋が通っており、大きな説得力をもって受け止められました。そのため、異論をとなえる者もなく、和宮奪還の計画は中止となりました。この一件によって武市の卓識に一同は感服し、かれの声望は志士たちのあいだで一段と高まったと伝えられています。

立てよ郷士!

武市半平太は、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らと江戸で会談を重ね、「おのおのが藩論を勤王にまとめ、藩主を奉じて上洛し、幕府に攘夷を迫る勢力を糾合する」ことを誓約しました。こうした諸藩連携の構想を背景に、武市は土佐に一大勤王運動を巻きおこす決意を固めます。

その第一歩として、文久元年(1861年)8月、江戸在住の同志とともに「土佐勤王党」を結成しました。結成当初の参加者は、武市を筆頭に大石弥太郎、島村衛吉、間崎哲馬、門田為之助ら8名。盟約文は大石弥太郎の起草によるもので、かれらは血判をもって署名し、結束を誓いました。

『土佐勤王党盟約書』武市瑞山関係文書第一

盟曰
堂々たる神州戎狄の辱しめを受け、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治れる御代の因循委惰という俗に習いて、独りも此心を振い挙て皇国の禍を攘う人なし。
かしこくも我が老公夙に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉えども、却てその為めに罪を得玉いぬ。斯く有難き御心におはしますを、など此罪には落入玉いぬる。君辱かしめを受る時は臣死すと。
況むや皇国の今にも衽を左にせんを他にや見るべき。彼の大和魂を奮い起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らバ、団結して水火をも踏まむと、爰に神明に誓い、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は万民の患をも払はんとす。左れば此中に私もて何にかくに争うものあらば、神の怒り罪し給うをもまたで、人々寄つどいて腹かき切らせんと、おのれ/\が名を書きしるしおさめ置ぬ。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太 小楯
  大石弥太郎 元敬
  島村衛吉 重険
  間崎哲馬 則弘
  門田為之助 穀
  柳井健次 友政
  河野万寿弥 通明
  小笠原保馬 正実
  坂本龍馬 直陰
(以下連署血判)


[現代語・意訳]
盟約
神聖なるわが国は、いまや異国の辱めを受け、古来伝わる大和魂も絶えようとしていると、帝は深くお嘆きである。しかしながら、長き太平の世に慣れた人びとは惰性に流され、この心を奮いおこして皇国の禍を払いのけようとする者は一人もいない。
おそれ多くも我が主君(山内容堂)は早くからこの国難を憂い、幕府の要人に訴えてきたが、かえって罪を得て謹慎の身となった。まことに尊い御志をお持ちであるのに、なぜ罪に落とすのか。君主が辱めを受けたとき、臣下は死を覚悟してその恥をそそぐべきである。
ましてや、いま皇国が滅びの瀬戸際にあるこのときに、どうして傍観できようか。われらは大和魂を奮いおこし、異姓兄弟の契りを結び、一点の私心を交えることなく力をあわせ、国家再興の一助となる覚悟である。
もし錦の御旗が一たび翻るときは、団結して水火をも踏み越えることを、ここに神明に誓う。上は帝の御心を安んじ奉り、中は藩主の御志を継ぎ、下は万民の憂患を拭い去ろうとするものである。この中にもし私心を抱いて争う者あらば、神罰を待つまでもなく、同志が集まってその腹を切らせるであろう。ここに各人が署名血判し、誓約のしるしとする。
 文久元年辛酉八月
  武市半平太 小楯
  大石弥太郎 元敬
  島村衛吉 重険
  間崎哲馬 則弘
  門田為之助 穀
  柳井健次 友政
  河野万寿弥 通明
  小笠原保馬 正実
  坂本龍馬 直陰
 (以下連署血判)

翌月、帰国した武市は同志の糾合につとめ、最終的に192名が土佐勤王党に加盟しました。坂本龍馬はその第9番目に署名しており、土佐における最初の加盟者となりました。

加盟者の多くは郷士や庄屋などを中心とした下士層でした。上士層では小南五郎右衛門、佐々木三四郎、谷干城らが勤王党に理解を示したものの、実際に名を連ねたのは宮川助五郎などの数名にとどまっています。

武市は、この勤王党の勢いをチカラとして「一藩勤王」の実現を志しました。それは、藩士が個々に脱藩して尊王攘夷に奔走するのではなく、藩という組織全体を勤王に統一し、国家的な運動へと結びつけようとする構想でした。

武市はその実現をせまり、当時藩政を掌握していた参政・吉田東洋に対し、藩をあげて尊王攘夷に踏み出すべきだと強く訴えます。

しかしl東洋は、山内家の由緒を根拠に反論します。
「当家は藩祖山内一豊が関ヶ原の戦いで戦功を立て、神君から恩賞として土佐24万石を拝領した家柄である。幕府への恩義はきわめて重い。薩摩・長州のような外様とは立場を異にする」と述べ、幕府の方針を重んずる姿勢を崩しませんでした。

さらに東洋は、尊皇攘夷をとなえる急進派を「尊王倒幕のごときは、浮浪の剣客や書生の輩が、天下を混乱に陥れようとする妄動である」と切り捨て、武市の進言を退けました。こうして武市と東洋の対立は、やがて藩政の主導権をめぐる深刻な確執へと発展していきます。


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