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15 土佐沸騰

井口村刃傷事件(永福寺門前事件)

土佐藩では、関ヶ原の戦い以降、土佐を領した山内家に仕える「上士」と、旧主・長宗我部氏の旧臣を多く含む「下士」とのあいだに、厳しい身分差が存在していた。文久元年(1861年)3月4日、そのくすぶり続けていた緊張が、ついに一つの刃傷事件として噴出する。

その夜、桃の節句の酒宴を終えた上士の山田広衛は、茶道方の益永繁斎をつれて帰途についていた。永福寺の門前にさしかかったところで、下士の中平忠次郎と出会い頭にぶつかった。

中平はすぐに「これは粗相」と詫びをいれて、そのまま通り過ぎようとした。ところが、酔っていた山田はこれを許さず、相手を軽格の者とみて、「無礼者め。人にぶつかって名前も名のらず、謝罪一言で立ち去るとは不届き千万」だと声を荒らげ、面罵した。

やがて口論は次第に激しさを増し、ついに両者は刀を抜き、斬り合いとなる。山田は江戸の玄武館で修行を積んだ剣の使い手で、腕前は「土佐の鬼山田」とも称されたといい、たちまち中平を斬り倒す。

このとき中平に同行していた宇賀喜久馬は、その場を離れて中平の兄・池田寅之進のもとに急報した。知らせを聞いた池田は、押っ取り刀で現場へ駆けつける。永福寺門前に至ると、弟はすでに斬り倒されており、山田は川端で水を飲み、喉をうるおしていた。

池田は山田の背後から近づくと、その背に渾身の一撃を加える。深手を負った山田は振り返って応戦したが、ついに斬り倒された。その後、提灯を借りに出ていた益永が戻ると、池田はこれも斬り倒した。

池田は弟の亡骸を戸板にのせて運びはじめたが、そこへあらわれた上士の諏訪助左衛門と長屋孫四郎はその処置を咎め、藩法上、検分前に死体をみだりに動かすことは、たとえ親族であっても許されないとして、亡骸を現場へ戻すよう諭した。

池田はその意見に従い、亡骸を元の場所に戻して帰宅した。その後、藩庁の検分を経て、山田と益永の亡骸は山田家へ、中平の亡骸は池田家へ、それぞれ引き取られた。

この事件はたちまち人びとの知るところとなり、山田家には上士が、池田家には下士が続々と集まった。両陣営はたがいに対決の気勢を上げ、城下は一触即発の緊張につつまれていった。

瑞山会編『維新土佐勤王史』富山房、大正1年(1912年)

偶ま井口村刃傷事件起り、下士池田寅之助なる者、実弟の殺されし其の場に、当の敵なる上士の剣客山田広衛を倒し、従容として屠腹したるが、坂本等一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり

益荒男の魂

上士側が池田寅之進の引き渡しを迫る一方、下士側は非は山田広衛にあるとしてこれを拒む。これは単なる刃傷事件にとどまらず、かねてより両者のあいだにくすぶっていた対立が、一挙に全面衝突へ発展しかねない状況を生み出していた。

そこで老功ある者が、「池田はすでに弟の仇を討ち、本望を遂げた以上、もはや命を惜しむべきではない。かといってその身を山田側に引き渡すわけにもいかない。ここは潔く自刃し、武士としての意地を貫くほかない」と進言した。

この意見が受け入れられ、最終的に池田と宇賀の両名が切腹し、事態は収拾された。(佐佐木高行『勤王秘史佐佐木老侯昔日談』)

坂本龍馬は、当時、池田兄弟とは疎遠になっていたが、このときは騒動を聞いて駆けつけた。池田の切腹後、龍馬はその血潮に刀の下緒をひたすと、「見よ、これが益荒男の魂がこめられた形見だ。池田は、われら軽格の士気を奮い立たせるため、自ら犠牲となったのだ。決して卑怯なまねをするな。尽くせよ、尽くせ、国のために」と周囲を鼓舞したと伝わる。

坂崎紫瀾『汗血千里駒』春陽堂、明治18年(1885年)

此時池田の宅へ馳つけし有志の一人に坂本龍馬と云う人あり。始め池田兄弟と無二の友垣なりたりしも、央頃互いに論しの適ねば其交際を断ちたる折から該騒動を聞きしより、他に見るべき時ならずと諸有志と供に池田方に来たり。池田が割腹論を大に賛成し、寔に武士は斯こそありたけれと、更に之を禁ず。頓て寅之進が割腹の血汐へ己が刀の下緒(白糸なりしと)を浸し、韓血となりしを手に把りて「各々見られよ、之れぞ世にも猛男が魂魄残りし最期の記念。池田は我国軽格の元気を振興させんが為め身を犠牲に供したり。努々姑息に流るゝなかれ、蓋せよ蓋せ国の為」と押載きて元の如く刀に結つけ、家内の者に会釈をなして悠然と立去し。其挙動には一同感じて竭まざりし。是ぞ汗血千里駒が驥足を舒る開結なり。

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