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16. 井伊の赤鬼

南紀派 vs 一橋派

安政5年(1858年)4月、井伊直弼が幕府の大老職に就任すると、将軍継嗣問題や外交方針をめぐる争いは一気に先鋭化した。直弼は、将軍継嗣に一橋慶喜を推す大名らや、無勅許調印を批判する政敵たちと激しく対立し、やがて「安政の大獄」と呼ばれる政治弾圧へとつながっていく。

井伊直弼
井伊直弼
井伊直弼

幕末大老、近江彦根藩主。もとは部屋住みの身であったが、兄・直亮の死去により彦根藩主となる。安政5年(1858年)に大老に就任すると、将軍継嗣では一橋慶喜を退けて徳川慶福(のち家茂)を第14代将軍に据え、さらに勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印するなど、強権的な手法で幕政を主導した。これに反発する一橋派大名や尊王攘夷派を徹底して弾圧し、安政の大獄を主導する。安政7年(1860年)3月3日、水戸浪士らの襲撃を受け、桜田門外にて暗殺された。

嘉永6年(1853年)の黒船来航は、幕末の政治秩序に大きな衝撃をあたえた。幕府は対外政策の転換を迫られ、従来の支配構造そのものも揺らぎはじめる。こうした状況のなか、第13代将軍・徳川家定に実子がなかったことから、継嗣(=次期将軍)をめぐる深刻な政争が表面化した。

候補として浮上したのは、第11代将軍・徳川家斉の孫にあたる紀州藩主の徳川慶福(のちの家茂)と、水戸藩主・徳川斉昭の七男で一橋家を継いだ慶喜の2人である。慶福を推す「南紀派」と、慶喜を推す「一橋派」は、幕政の主導権をかけて対立した。

徳川慶福vs一橋慶喜
徳川慶福 vs 一橋慶喜

南紀派の中心にいたのは、溜間詰の重鎮である彦根藩主・井伊直弼である。これに溜間詰(江戸城の溜間に詰め、幕政に意見を述べる家格の高い大名)の親藩や譜代大名、大奥の有力者らが加わり、慶福を支持した。慶福は第11代将軍家斉の直孫にあたり、その血統の正統さが重視され、従来の幕府体制の安定にもつながると考えられた。

これに対抗したのが一橋派である。中心人物の1人は前水戸藩主の徳川斉昭で、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信ら、当時の有力諸侯たちが連携して慶喜を擁立した。さらに岩瀬忠震や川路聖謨ら、開明的な幕臣も慶喜を支持した。慶喜は年長で英明、人望があるとされ、有力諸侯らの後援によって幕政刷新を担う存在として期待されたのである。

赤鬼とよばれた男

しかし、情勢は次第に南紀派へと傾いていく。安政5年(1858年)4月、将軍・徳川家定は、井伊直弼を大老に任じた。大老とは臨時に置かれる幕府の最高職で、老中をも超える権限を持って幕政を統括する立場にあった。

直弼は就任直後から将軍継嗣問題を主導し、徳川慶福を次期将軍とする上意を取り付けた。さらに外交の舞台においても重大な決断を下し、アメリカ総領事ハリスの強い要求を受け、朝廷の勅許を待たぬまま、6月19日に日米修好通商条約への調印を断行したのである。

この無勅許調印は、朝廷の意向をないがしろにしたものとして強い反発を招き、幕府と朝廷の関係を大きく悪化させた。

こうした直弼の専断的な幕政運営に抗議して、6月24日、水戸前藩主・徳川斉昭と藩主・慶篤、尾張藩主・徳川慶勝、さらに越前藩主・松平慶永が、定例の登城日ではない日に江戸城へ登城し、大老・老中との面会を求めた(「不時登城」)。かれらは、無勅許調印が違勅にあたるとして直弼を弾劾し、あわせて将軍継嗣の再考を強く迫った。

ところが直弼は動じることなく、老獪にその追及を受け流すと、翌日には紀州藩主・徳川慶福を将軍継嗣とすることを正式に発表した。そして7月5日には、不時登城を規律を乱す重大な行為と断じ、関係者を一斉に処罰した。

なかでも水戸前藩主・徳川斉昭は首謀者とみなされ、急度慎(一切の外出を禁じる謹慎)が命じられた。尾張藩主・徳川慶勝と越前藩主・松平慶永には、同様にきわめて重い処分として隠居のうえ急度慎が命じられ、さらに水戸藩主・徳川慶篤と一橋慶喜には登城差控の処分が下された。

そして、勅書は渡された

大老・井伊直弼の主導によって幕府が、無勅許のまま条約を調印すると、孝明天皇は深く憤り、ついには譲位の意志まで示した。廷臣たちも事態を重く受け止め、天皇を思いとどまらせるには幕府に厳しい態度を示す必要があると判断する。

こうして安政5年(1858年)8月8日、幕府をいさめる勅書が水戸藩主・徳川慶篤に下された。

その主な内容は、まず、勅許を得ずに条約を調印した幕府の措置を問題視すること。次に、水戸・尾張・越前などの諸侯を処罰したことへの遺憾の意。そして、大老・老中をはじめ、諸大名が群議を開き、朝廷と幕府が協力して国政を立て直す公武合体の実現を求めるものであった。

この勅書は、幕府を経由せず、朝廷から水戸藩へ直接、内々に伝達されたため、のちに「戊午の密勅」と呼ばれた。さらに別紙の添書では、勅書を諸藩にも伝達するよう水戸藩に求めていた。一方、8月10日には同趣旨の勅書が幕府にも下されており、水戸藩だけに勅書が下されたわけではない。

もっとも、水戸藩に勅書が直接下され、しかも諸藩への回達まで求められたことは、幕府に強い衝撃をあたえた。幕府を介さず、朝廷の意向が諸藩へ直接伝わる前例が生まれれば、幕府の政治的権威そのものが揺らぎかねないからだ。

井伊直弼ら幕府側は、勅書降下の背後に水戸藩や一橋派、尊攘派による陰謀があるとみなし、反対派への警戒を一段と強めた。戊午の密勅は、こうして反対派の摘発をともなう安政の大獄へとつながる大きな契機となった。

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