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4. 山内侍と長宗我部侍

長宗我部家は滅亡しました

幕末の土佐における勤王運動の原動力となった郷士。かれらは制度上は武士に属していましたが、土佐藩の身分階層のなかでは下士とされ、上士の下位に位置づけられていました。

郷士には居住地の制限があり、衣服や生活様式にも厳格な規制が課されていました。これらは日常生活のいたるところにあらわれ、藩政への参加も厳しく制限されていたため、上士と郷士のあいだには深い溝が生じていたのです。

この土佐独特の郷士制度は、関ヶ原の戦い後におこなわれた国替えを大きなきっかけとして成立しました。すなわち、西軍に属して敗れた長宗我部盛親は所領を没収され、かわって東軍に与した山内一豊が、遠江掛川5万石から加増されて土佐24万石の国主として入封します。

一方、改易によって牢人の身となった盛親は京都伏見に移り住み、寺子屋を開いて子どもたちに読み書きを教えるなどして、生計を立てていたと伝えられます。家名再興の道は事実上閉ざされていましたが、慶長19年(1614年)、豊臣家の挙兵に応じて大坂城に入り、将として戦いに身を投じました。

しかし翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣において徳川方に敗れ、盛親は敗走の末に捕らえられます。その後、京都二条城に引き立てられ、城門前に晒されたのち斬首されました。かつて四国を制した長宗我部家は、ここに大名家としての命脈を絶たれたのです。

長宗我部盛親
長宗我部盛親

国入りのかたち

山内一豊は、関ヶ原の戦いにおける戦功によって、掛川5万石から土佐24万石への加増転封を受け、新たな領主として土佐へ入国しました。このとき一豊は、掛川以来の譜代家臣団に加え、上方で召し抱えた諸国の浪人たちを従えて入部しています。

当時、他国から新領主が入国するさいには、旧領主につかえていた旧臣を登用し、統治の円滑化と人心の安定をはかるのが通例でした。しかし山内家は、旧長宗我部の家臣をほとんど登用せず、その多くを知行没収のうえで百姓身分に落とし、支配下に置こうとします。

そのため、生活の基盤を失った旧臣たちは、長宗我部家の再興を掲げて蜂起しました。これが、のちに「浦戸一揆」とよばれる大規模な武装蜂起へと発展していきます。その中心となったのは、「一領具足」とよばれる半農半兵の下級武士層で、かれらは浦戸城に立てこもり、抵抗の姿勢を示します。このとき蜂起した数は、およそ1万7千人に達したと伝えられています。

一領具足

長宗我部家に属する半農半兵。平時は農耕に従事したが、合戦時には兵士として動員された。軍記物語『土佐物語』には「死生知らずの野武士なり」と記される。

これに対して山内家は、軍事力を背景とした武断的な措置を徹底し、武力による一揆勢の鎮圧に踏み切ります。

浦戸城に籠城した一揆軍の内部では、すでに重臣と一領具足のあいだに結束のゆらぎが生じていました。山内方はこの機を逃さず、旧長宗我部家の重臣であった桑名弥次兵衛らと内通し、城内に謀略をめぐらせて切り崩しを進めます。

桑名らは、籠城戦の長期化は不利であるとして内部協議を主導し、ついには城門を開かせて一揆勢の主力を城外へと誘い出しました。その結果、一揆勢は背後の防衛拠点を失い、浦戸城から締め出されるかたちで戦力を分断されました。

この裏切りによる混乱に乗じて山内方の軍勢は一気に攻勢を強め、一揆勢を撃破します。戦後、討ち取られた273名の一領具足の首級は塩漬けにされ、当時大坂にあった徳川家康のもとへ送られたと伝えられています。

これ以後、旧長宗我部家臣による組織的な抵抗は沈静化し、重臣を中心とする上層部の多くは土佐を離れて、他国に活路を求めて仕官先を探す動きを強めていきます。一方で、一領具足をはじめとする中下層は土佐にとどまり、帰農を余儀なくされました。

なかには山内家に協力的な姿勢を示した者や、兵法・鉄砲・築城などの専門技能を評価され、例外的に仕官を許された者もいました。しかし、そうした例はごく限られており、緊張をはらんだ空気のなかで、山内家による統治がはじまったのです。

山内一豊
山内一豊

郷士はじめて物語

新たな領主となった山内一豊が入国した当時、土佐は旧領主・長宗我部氏の改易とその後の混乱によって耕地が荒れ、藩財政も不安定な状況にありました。これに対処するため、土佐藩は早くから新田開発に取り組み、石高の増加と年貢収入の安定をはかります。

新田開発を進めるにあたり、藩庁は、在地の事情に通じた旧長宗我部家臣の一部を登用し、開墾作業にあたらせました。そして慶長18年(1613年)、香美郡山田村の新田開発への協力を条件に、旧臣のうち志願する者を「郷士」として正式に召し抱えます。

これが土佐藩における郷士制度のはじまりであり、このときに登用された者たちは「慶長郷士」とよばれました。

かれらは村落に居住しながら帯刀を許され、軍役や治安維持といった武士的職務にも従事しました。すなわち郷士は、農民的生活を維持しつつ、一定の武士的特権と義務をあわせ持つ「半士半農」の存在として位置づけられたのです。

土佐藩が長宗我部旧臣の登用に踏みきった背景には、単なる懐柔策ではなく、領国支配の安定と藩政基盤の確立という現実的な判断がありました。

・旧臣の身分と生活を保証して反発を抑え、在地支配を安定させる。
・荒地の開墾に、土地に詳しい旧臣を労働力として活用する。
・家臣団の不足をおぎない、兵力として動員できる体制を構築する。

このように土佐藩における郷士登用は、治安の維持、耕地の開発、軍備の補強といった行政上の課題にこたえるかたちで構想されました。在地の旧長宗我部勢力を排除せず、むしろ藩政の枠内に取り込んでいくという点に、土佐藩の統治戦略の特徴があらわれています。

世はまさに大郷士時代!

郷士の登用策は、2代藩主・山内忠義のもとで執政をつとめた野中兼山によって、本格的な制度として整備・展開されました。兼山は藩政改革の一環として、従来の郷士登用を新田開発政策と結びつけ、制度をより実務的に運用しようとしました。

正保元年(1644年)、兼山は香美郡における新田開発にさいし、3町以上の土地を自力で開墾した旧長宗我部家臣らおよそ100人を、「百人衆郷士」として登用したのです。

それまでの郷士登用が、家格や旧功といった過去の由緒に依っていたのに対し、この措置では、旧臣という前提を保ちつつ、開墾面積という具体的な実績が基準として明確に示されました。この百人衆郷士の設置は、家柄に加えて実績が制度的に組み込まれた点に特徴があります。

さらに承応2年(1653年)には、旧臣層に限らず、他国からの浪人や土佐国内の有力農民・商人など、より幅広い階層のうち、新田開発に従事した者を「百人並郷士」として取り立てる措置がとられました。これにより、郷士登用は地域や出自に限定されることなく、藩内各地へと広がっていきます。

その結果、郷士の数は次第に増加していき、寛文2年(1662年)には、山内家家臣のうち上士が296人であったのに対し、郷士は613人に達していました。この人数構成から、郷士が在地に根ざした支配や治安維持を担う存在として、藩政の基盤を形成していたことがうかがえます。

もっとも、郷士はあくまで軽格に位置づけられており、上士に比べて役職への登用は大きく制限され、居住区や参勤・登城の作法、日常の礼法などにおいても、厳格な身分差が設けられていました。

郷士の数が増加していったその一方で、経済的な困窮や無嗣断絶によって没落し、郷士名義(いわゆる「郷士株」)と領知を他家に譲渡する家もあらわれるようになります。

当初、郷士株の継承は親族間における家名相続が中心でしたが、やがて血縁関係のない他家への名義譲渡もおこなわれるようになり、郷士株は実質的に売買の対象となっていきました。このような譲渡によって郷士身分を取得した者は「譲受郷士」、反対に郷士株を失った者は「地下浪人」と称されました。

郷士株の譲渡が活発化した背景には、江戸中期以降に進展した商業経済の浸透と、在地における豪農・豪商層の台頭があります。これにより、郷士株は従来の家格や由緒にもとづいて継承されるものから、しだいに資力に応じて取得されるようになっていきました。

郷士制度の柔軟化が進むなかで、宝暦13年(1763年)、土佐藩は西部幡多郡における新田開発を奨励するために、新たな郷士登用策を実施します。この施策では、重罪人の家系など「由緒不相応」とされた者を除き、開発に功労のあった者については、郷士身分を新規に与えることが認められました。

これにより、それまで既存の郷士家から郷士株を譲り受けるほかなかった町人・百姓層にも、新田を開発して年貢を安定して納入することを条件に、郷士へ取り立てられる道が開かれることになりました。

幡多地域の郷士編成は、一領具足層の再編を基盤とする従来の方式とは異なり、新田開発と年貢納入を条件として、開発の担い手を郷士身分に組み込む政策として実施されたのです。

この結果、幡多郡では町人や百姓出身の者が郷士として数多く取り立てられるようになり、のちに「幡多郷士」と称される郷士層が形成されていきました。坂本龍馬の生家である坂本家も、明和7年(1770年)に郷士へ取り立てられた家の一つとなります。


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