6. 坂本のお仁王さま
龍馬よりつよい姉
坂本龍馬を知るうえで、欠かすことのできない女性がいます。それが、三姉にあたる乙女です。
坂本乙女は龍馬より3歳年上で、身長はおよそ5尺8寸(約175cm)、体重は30貫(約112kg)近くあったと伝えられます。その堂々たる体格から「お仁王さま」とあだ名され、「龍馬よりも強い」とも評されたほどでした。
男まさりの気性で、料理や裁縫といった家事は得意ではなかった一方、剣術は切紙の腕前に達し、馬術や弓術、水泳などの武芸にも通じていました。さらに、琴、三味線、一絃琴、舞踊、謡曲、浄瑠璃といった芸事にも長け、和歌や絵画をたしなむなど、文武の両面をあわせ持つ女性でした。
乙女の豪胆で多才な一面は、『維新土佐勤王史』にも記されており、深夜に人けのない鷲尾山にのぼり、袖に忍ばせた短銃を取り出して何発も撃ち、その反響を楽しむように笑みを浮かべて帰宅した、という逸話が伝えられています。

坂本乙女
龍馬が乙女にあてた手紙(『慶応元年9月頃付坂本乙女宛 龍馬書簡』)に、「此龍がおにおふさまの御身をかしこみたふとむ所よくよくに思たまえ。乙大姉 をにおふさま」とある。
龍馬が乙女・おやべにあてた手紙(『慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛 龍馬書簡』)に、「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばんなり」とある。
姉さんの恩
そんな坂本乙女は、幼くして母を亡くした龍馬にとって、育ての親代わりでもありました。龍馬が12歳で母・幸を亡くしてからは、姉の乙女が弟の面倒を引き受け、厳しく、しかし深い愛情をもって導いていきます。
乙女は夜中に龍馬をおこして寝小便を戒め、朝には習字を教え、『古今集』や『新葉和歌集』を読み聞かせました。午後にはみずから竹刀を手にして剣術の稽古をつけ、かれを厳しく鍛えあげたといいます。
龍馬は、この姉の世話になったことを後々まで感謝しており、「おれは若い時親に死別れてからは乙女姉さんの世話になつて成長つたので親の恩より姉さんの恩が太い」(川田雪山「千里駒後日譚」『第4回土陽新聞』)と語っています。
弘松宣枝『阪本龍馬』民友社、明治29年(1896年)
彼の姉乙女は、丈高くして豊大、溌活にして撲実也。好んて勤王と云ひ、尊王と称し、行脚して天下を漫遊せんと企てたることあり。婦人らしき所なし。彼は彼の女を「お仁王」と云ひ、「天下第一の大あらくれ者」と評せり。「龍馬より強し」と賞むる者あり。或る人彼女を評して曰く、女装せる男子也と、適評と謂ふべし。
瑞山会編『維新土佐勤王史』冨山房、大正元年(1912年)
又其の三女を乙女と呼べるが、龍馬より長ぜること四歳、心も身も雄々しくて、坂本の「女仁王」の綽名つけられたり、偶ま龍馬が姉の浴衣を誤り着て出てしと云ふにても、其の身丈の弟に劣らぬを知るべく、乙女は短銃の音を好み、深夜に鷲尾山などの人なき処に上り、袖より短銃を取り出し、思ふがまゝに連発して、其の轟々たる反響にホホと打ち笑み立ち帰りしも、此の事は唯龍馬にのみ語りて、父母に知らしめざりしと、常に龍馬を励まして、之を奮励せしむること大方ならず、寧ろ龍馬が為めには一人の益友とも看做すべく、其の龍馬をして復た呉下の阿蒙にはあらざるよと人に云はしめしは、蓋し姉の力与りて多きに居る。
千頭清臣『坂本龍馬』博文館、大正3年(1914年)
乙女子は剛勇男子の如く真個女丈夫の態あり。常に好んで短銃を放ち、『八犬伝』『三国志』等を読む。されば時人は称して『坂本のお仁王さま』と呼び、『龍馬よりも強し』と謂へり。龍馬亦其の家信中に屡々『お仁王さま』『天下第一の大荒くれもの』などゝ称す。
龍馬は身の丈五尺八寸に余れる大兵なりしが、乙女子の骨格亦龍馬に劣らざりし者と見え一夕龍馬過ちて乙女子の衣を着け知らずして鏡川の納涼場に至り、傍人に数へられて漸く気付きし事なども有しといふ。
其の初め、乙女子他に嫁し、後ち家に帰れるは既に説く所の如し。其の家に帰るや、龍馬を愛撫して倦まず、怯を矯め、勇を励まし、以て其の性情を一変せしめたり。他日龍馬をして『どふぞ/\昔の鼻垂れと御笑ひ下さるまじく候』と自負せしめしもの、乙女子の感化与つて力あり。
お仁王の教え
坂本乙女は、天保3年(1832年)1月、坂本家の三女としてうまれました。本来の名は「留(とめ)」といい、3人続けて女児がうまれたことから、「これで留める」という意味をこめて名づけられたものです。「とめ」に敬称の「お」をつけて「おとめ」とよばれ、のちに「乙女」というあて字が用いられるようになりました。
安政3年(1856年)ごろ、乙女は兄・権平のすすめにより、山内家御典医であった岡上樹庵と結婚します。安政5年(1858年)には長男・赦太郎を、慶応3年(1867年)に長女・菊栄(通説では庶子)を出産しました。
娘の菊栄は、のちに母から受けた教育や生活のしつけについて語っており、そこには乙女が母として、また師として、弟の龍馬にも教え込んだであろう、厳格な教えが色濃くあらわれています。
宮地仁『おばあちやんの一生 岡上菊榮伝』岡上菊栄女史記念碑建設会、昭和25年(1950年)
【しきたり】
座敷を歩くにも小笠原流のすり足で、飲食等武家の作法通りにし、客膳たる高脚の本膳には古式通りの三汁五采を供へ、自分の膳にすら魚は尾頭付きの鯛を常としたが、而も魚肉は只表面を食べるばかり、菊栄等が、裏の片身に箸を付くのをみては、武士の子にあるまじき尾籠の振舞とて叱責した。又来客に出す菓子は紅白のニ種を、夫れ/\別の高つきに盛った。そして之を食する作法として、先ず白菓子を先きに喰べ、次ぎに赤菓子を喰べる、そして如何なる場合にも双方三個以上を食するは違法なりとて、之を厳禁した。【学習】
かの女(菊栄)が6歳の春を迎えて、寺子屋入りをして習字や「孝経」の素読を受けるやうになると、自宅では乙女からは別に「小学」「大学」の講義を授けた。武術は小太刀、懐剣、手裏剣の外、柔道、騎馬、水泳まで習った。【水泳練習】
まづかの女を丸裸にして、その胴体を荒縄で縛り、縄尻を物干竿の先きへ括りつける。まるで竹竿へくくりつけた亀の子同然だ。かうしておいてかの女の体を水につける。かうやられたら何が何でも、手足をバタ/\やって体を浮かすようにせねば溺れるから、かの女も自然に泳ぎの要領を覚える。かの女の泳いでゐるうちは、その儘にしておくが、かの女が溺れかけると竹竿を手許に引き寄せる。【肝試し】
その一例を云ふと、かの女の7歳のとき懐剣を枕もとに置いて寝たが、真夜中に何者かに揺り起された。四辺を見ると其所には黒頭巾の大男が突立っていた。かの女はビックリして叫ばうとしたが、母の日頃の教訓はこゝぞと思って懐剣の鞘を払って、寄らば突かんと身構えた時、大男は覆面を取って、母乙女の姿となり、ただ一語「それでよろしい」と云って立去った。【女子教育】
一体男のする事で女に出来ぬものは何一つない。それが女に出来ないのは、女は男に叶はぬものとして、昔からそれをやらせなかったからだ。いづれ男女同様の仕事をする時がくる。其時女は家庭で男に従ふべきも、社会へ出て対等の場合は婦人も男子と競争せねばならぬ。今私がお前に教へるのは、其時の為じゃ。
強き姉、弱き女
乙女は夫・岡上樹庵とのあいだに一男一女をもうけましたが、その結婚生活は、必ずしも幸せなものではありませんでした。姑とは折り合いが悪く、夫の樹庵も癇癪の強い人物で、機嫌を損ねると乙女の髪をつかんで殴ることさえあった、と伝えられています。
こうした家庭内の不和は、乙女が龍馬にあてた手紙の内容からも読み取ることができ、かのじょの鬱屈とした心情を読み取ることができます。
『文久3年6月29日付坂本乙女宛 龍馬書簡』
「先日下され候御文の内にぼふずになり、山のをくへでもはいりたしとの事聞へ」
(先日姉さんがくれた手紙には、尼になって山奥にでも入りたい、と書かれていたのを読みました)
『慶応3年6月24日付坂本乙女・おやべ宛 龍馬書簡』
「御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこくに出かけ候御つもりのよし」
(病気がよくなれば、姉さんも土佐を出て他国へ出かけるつもりがあるとのこと)
龍馬は、荒くれる乙女をいさめ、「坂本家にいるあいだは、どうか権平兄さんの許しを得てからにしてください。私が土佐に帰るまでは、死んでも待っていて下さい」と書き送り、感情にまかせて家を飛び出そうとする姉を必死に引き止めようとしています。
しかしその後、夫と女中の公文婦喜のあいだに子どもがうまれたことから(通説では菊栄とされる)、乙女は岡上家に留まることを潔しとせず、みずから離縁を申し出て、実家である坂本家へと戻りました。