7. おとめ vs おりょう
勝ち気なふたりは
坂本龍馬の横死後、身よりのなかった妻お龍(楢崎龍)は坂本家に身をよせ、坂本乙女と同居することになりました。しかし、その暮らしは長くは続かず、ほどなくしてお龍は土佐を離れています。
ふたりとも勝ち気な性格で、もともとそりが合わなかったという説。お龍のふるまいに問題があったとする見方もあれば、龍馬の兄・権平が政府から支給される報奨金を目あてに、お龍を疎んじて追い出したという説も伝えられています。
実際のところ、乙女とお龍の関係はどのようなものだったのでしょうか。ふたりの関係については、史料のあいだでも相反する証言が残されています。
真の姉
明治32年(1899年)11月の土陽新聞に掲載されたお龍の回想録『千里駒後日譚』では、かのじょ自身が乙女との関係について「乙女姉さんは親切にしてくれました」と語っています。
また、生前の龍馬が乙女にあてた手紙には、「お龍は、まるで本当の姉のように、乙女姉さんを慕っております」と記されており、少なくとも当時、ふたりの関係が円満であった可能性がうかがえます。
川田雪山『千里駒後日譚』第4回土陽新聞、明治32年(1899年)
姉さんはお仁王と云ふ綽名があつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今姑らく略しぬ。されど這の女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期し端を改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。
『慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛 龍馬書簡』
「右女ハまことにおもしろき女ニて月琴おひき申候。今ハさまでふじゆうもせずくらし候。此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引とりて人にあづけおきすくい候。又私のあよふき時よくすくい候事どもあり、万一命あれバどふかシテつかハし候と存候。此女乙大姉をして、しんのあねのよふニあいたがり候。乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばんなり。」
「右の女は、まことにおもしろい女で、月琴を弾きます。今はそれほど不自由もせずに暮らしております。この女は、事情があって、十三になる妹と五歳になる男の子を引き取り、人に預けて養っております。また、私が危うい目にあったときには、よく助けてくれたこともあります。万一、命があるならば、どうにかして世話をしてやりたいと思っております。この女は、乙女姉さんを本当の姉のように慕っております。乙女姉さんの名は諸国に知れ渡っており、この龍馬より強いという評判でございます。
誰よりもお龍が嫌い
これに対して、同じ明治32年に発表された安岡秀峰の聞き書き『反魂香』では、まったく逆の証言が記されています。
海援隊士・安岡金馬の三男である秀峰が、晩年のお龍から聞き取ったというこの記録では、坂本家はお龍を引きとったものの、政府から支給される龍馬の褒賞金を当て込んだ兄・権平夫妻が、自分を家から追い出そうとしたと、強い憤りをにじませながら回想されています。
安岡秀峰『反魂香』文庫、明治32年(1899年)
所が義兄及嫂との仲が悪いのです。なぜかといふと、龍馬の兄といふのが家はあまり富豊ではありませむから、内々龍馬へ下る褒賞金を当にして居たのですが、龍馬には子はなし金は無論お良より外に下りませむから、お良が居てはあてが外れる、と言つて殺す訳にもゆきませむから、只お良の不身持をする様に仕向て居たのです。
既に坂本は死むで仕舞ふし、海援隊は瓦解する、お良を養ふ者はさしずめ兄より外にありませむから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違ひない、その時はお良は不身持故、龍馬にかはり兄が離縁すると言へば赤の他人、褒賞金は此方の物といふ心で始終喧嘩ばかりして居たのです。
之れが普通の女なら、苛められても恋々と国に居るでしやうが、元来きかぬ気のお良ですから、何だ金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる、妾あ金なぞはいらない、そんな水臭い兄の家に誰が居るものか、追い出されない内に、此方から追ん出てやろうといふ量見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借り、仏三昧に日を送つて居ましたが、坐して喰へば山も空しで、蓄はつきて仕舞ひ、遂には糊口に苦む様になりました。
さらに、昭和6年(1931年)発行の実話雑誌に掲載された安岡秀峰の『阪本龍馬の未亡人』では、お龍の性格や素行にまで踏み込み、かのじょが坂本家のみならず、龍馬の同志たちのあいだでも孤立していたと記されています。
安岡秀峰『阪本龍馬の未亡人』実話雑誌、昭和6年(1931年)
茲で少しくお良さんの性格を書いて置かう。お良さんは当時の婦人気質から言うと、御転婆な、京女には似合はない、大酒呑のおしやべりであつた。俗に言ふ侠の方で、随分人を食つた女であつたらしい。
坂本はぞつこんお良さんに惚れて居たが、坂本を首領と仰ぐ他の同志達は、お良さんを嫌つて居た。第一に生意気な女である、坂本を笠に着て、兎角他の同志を下風に見たがる、かう言つた性格が、坂本の死後、お良さんを孤立させた。坂本の姉のおとめは、誰よりもお良さんが嫌ひであつた。だから、坂本の家は、甥の高松太郎が相続してお良さんは坂本家から離縁された。と言つても其当時、戸籍は無かつたので、離縁に就いての面倒な手続きは要らなかつたのだ。
美談と怨念のあいだ
このように、乙女との関係を良好とする『千里駒後日譚』と、険悪だったとする『反魂香』および『阪本龍馬の未亡人』とでは、証言の内容に大きな食い違いがみられます。
ただし、当時のお龍の困窮ぶりや、土佐を離れざるを得なかった境遇、さらに『反魂香』で語られる褒賞金をめぐる事情などをあわせて考えると、後者の証言が当時の実情に近いと見るのが自然です。
そもそも『千里駒後日譚』が掲載された土陽新聞は、龍馬の故郷である高知で発行された新聞であり、おもな読者は地元の人びとでした。そうした背景をふまえれば、龍馬の家族を悪しざまに描くことは避けられた可能性が高いと考えられます。
一方で、お龍が『反魂香』などで語った険悪な関係の描写には、当時の切実な感情もにじんでいます。龍馬の死後、お龍は経済的に困窮しており、取材時には京都の長屋に住み、酒に溺れていたともいわれています。かのじょは、坂本家や海援隊の人びとに見捨てられたという思いを、終生ぬぐいきれなかったのかもしれません。
晩年の乙女は、坂本家の養子である坂本直寛(姉・千鶴の次男)に扶養されていました。しかし明治12年(1879年)、土佐でコレラが大流行したさい、感染を恐れて野菜を口にしなかったことから壊血病を発症し、8月に死去しました。享年48歳でした。